スキルス胃がんだったとは!

夫がスキルス胃がんステージ4の告知を受けてからのこと

「胃がん 4型」

もちおが告知を受けた日の深夜。

わたしはもちおが眠った後、リビングでひとり「胃がん 4型」で検索した。4型とはスキルス胃がんと呼ばれる進行がんのことだった。

 

スキルス胃がんは胃粘膜に浸潤するタイプのガンで、発見が難しく進行が早い、そのため生存率が低さが顕著だということだった。逸見政孝手塚治虫はスキルス胃がんで亡くなった。2012年に宮迫博之もスキルス胃がんで手術をして胃の1/3を切除していた。

 

がんは進行の度合を四段階にわけてステージ1、ステージ2とステージごとに呼ぶ。もちおがどのステージにいるのかこの時点ではわからなかった。しかし検索結果はとにかく暗い話ばかり。明るい口調なのは「まず治ることはないので旅行にでもいって、やりたいことをしてすごしましょう」と他人事のやけくそ気味なものだけだった。

 

ないの?なんか、ないの?治った話とか、効果的な治療法とか。

 

「そうか。年末の胸ふたがれるような予感はこれだったのか、なるほど!」という映画でも見ているような気持ちと、「待って待って、待って待って待って、ちょっと待ってやめて、元に戻して」という気持ちが襲ってきた。突然屋上の柵の向こうへ押し出されたような気分だった。

 

寝室に戻り、眠っているもちおの横顔を眺めていたらびっくりするほど泣けてきた。

起こしたらいけない。わたしは落ち着いていないといけない。喉を絞めて声を殺すと苦しくて、もちおも苦しいのかなと思うとさらに涙が止まらなくなった。

 

「あんなにいったのに、どうして無茶ばかりするんだ!」と腹立たしくやりきれない気持ちと、「わたしと一緒にならなかったらこんな苦労もしないですんだのに。結婚したのが間違いだった」という思い。「待って待って噓でしょ」「やっぱりね、あれもこれもこのことだったのよ」もぐるぐるまわって夜は更けた。

 

この頃のもちおは食べられないだけで、肌つやもよく、声にも覇気があった。たくましい腕に厚い胸板ですやすや眠るもちおはいたって健康そうに見えた。「いつかもちおがいなくなる日が来たらどうしよう」とこれまで何度も思ってきたのに、まだ何の覚悟も出来ていない。

 


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がん保険選びの難しさとひまわり生命お姉さんのやさしさ

告知から5年前、2011年の秋に「ライフプランナーから保険の見積もりを受けてみませんか」という電話がプロバイダー経由でかかってきた。

 

その年わたしたちは3.11の震災と原発事故を深刻に受け止め、今後の住まいや仕事について長期的な視点で考えなおそうとしているところだった。当時は掛け捨ての共済に入っているだけで、もしものときに保険金代わりに使えるまとまった貯金もなかった。
当時もちおは35歳。デスクワークに就いていて、厄介なピロリ菌も無事除菌し終わりましたと病院でお墨付きをもらって数年経つ。今後年齢が上がると掛け金は上がるし、デスクワークを続けている保証もない。ほかの病気で引っかかったら入れない。入るならいまだ。

 

アドバイザーのSさんは見るからに仕事が出来そうな人だった。資料がごっそり入ったデカくてゴツくて真っ黒で、いかにも重そうな鞄を持ってやってきた。昔のお医者の往診鞄みたいだ。

 

わたしたちは希望の保証と支払い可能な金額を伝え、Sさんのすすめに従って三つの保険に入った。メットライフアリコの60歳満期で生涯続く医療保険、その保険に付帯できるガン特約。
がん保険は別に入った方がいいですよ」とSさんはいった。「がん治療ってやっぱりすごくお金がかかるんです。医療費に上限があっても入院や手術で保険対象にならないものも多い。がんに特化した、先進医療も受けられる保険があるので、そちらをおすすめします」
これがひまわり生命の「勇気のおまもり」だった。

 

2016年1月13日、もちおが胃がんと診断され、今後の検査と手術の予定をB医師から聞いたあと、わたしは保険会社に電話をした。「夫がガンで」と誰かに話したのはこれが最初だった。

 

メットライフアリコの担当者は混雑した役所の窓口担当のような人だった。非常に事務的に住所氏名年齢など契約事項を確認し、所在地の読み仮名が一部違うことにしばらく固執していた。
「こちらにはこのようになっていますが?そちらでよろしいですか?では訂正されますか?」
どうでもいい。漢字が正しくて郵便物が間違いなく届けばわたしにはどっちでもいい。いまそんな話していたくない。こっちはこれから生きるか死ぬかの算段しないといけないんだ。いや、死亡届の窓口もこんな感じなのかな。

 

次にひまわり生命に電話をかけた。
「お電話ありがとうございます、担当のひまわり(仮名)です!」第一声から歌のお姉さんのように朗らかな声の方が出た。メットライフアリコとのギャップがおかしくて、なんだか笑ってしまいそうになった。
ところが「実は夫が胃がんの告知を受けまして」と話すと急転直下、お姉さんはこれまた見るからに悲痛な声で「…それは、さぞお気を落としのことでございましょう」といった。こんな風にいわれると逆に「いや、それほどでもないんですけど」とまたおかしくなってしまう。

 

「それではさっそくではございますが、ご契約手続きをご案内させていただいてもよろしいでしょうか」
「お願いします」
「まず一時金ですが、何かとご入用でしょうからこちらを先にお振込みさせていただきたいと思います」
そうだ、一時金が100万円入るんだった!

 

そのころわたしたちは一時期をある意味で残念賞のようにとらえていた。ガンになっちゃったけど、これで何か楽しいことでもしてね、という慰め代。「SONYのVAIOZ CANBSがほしい、一時金で買っていい?」ともちおははしゃいでいた。しかしこの一時金こそ闘病ビギナー予想外の出費を支える虎の子になることを、後にわたしたちは思い知らされる。

 

医療保険を受け取るためには保険会社の作成した用紙に通院、入院、手術などかかった費用を病院に記入してもらわなければならない。これを病院に出してもらうのに一通7500円くらいする。病院にかかるたびにこれを書いてもらうと保険料の大半が用紙代になってしまう。なのである程度まとまってからにした方がいい。それまでかかる費用は一時金でカバーする。

 

この術前検査がけっこうかかる。保険適用でも数千円、数万円という検査が続くし、交通費もかかれば仕事を休むことで入るお金も減る。バタバタしていると外食も増える。つまり保険が下りるまである程度まとまったお金がないと生活が詰む。

 

記入用紙は保険会社ごとに違うので、保険を2社かけていた場合は通常病院側に支払う記入代も倍になる。「ですが、私どもひまわり生命は他社の保険会社が発行した記入用紙も受け付けておりますので、コピーで結構です」とお姉さんはいった。なんて細かいところまで行き届いているんだ。

 

一方メットライフアリコは規約に沿った用紙に規約通りに記入した原本しか受け付けない。後にメットライフアリコのがん特約は手術後の費用のみ保険対象で、手術前の検査や治療は保険対象外だということを知る。つまり手術前に化学療法でがんを小さくする方法をとった場合、また手術ができない場合の放射線や化学療法にかかった費用は出ない。掛け金の小さな特約とはいえ、これではかけた意味がない。そうと知っていたら考えなおしていたと思う。

 

当事者になってから調べて驚いたことはほかにもある。がん保険とひとくちにいっても何がガンでなにがガンでないかは保険会社の解釈とプランによって違う。長年がん保険をかけていてもいざ告知を受けたとき保険適用されるかどうかはケースごとに調べてみなければわからない。

がん保険の3つの落とし穴に要注意!加入前に絶対確認すべきポイント

 

保険に加入するときライフアドバイザーのSさんがゆるいたぬきの絵がついた「ひまわり生命 勇気のおまもり」と書かれたパンフレットを出しながら、「こんな名前ですけど、とてもしっかりしたいい保険なんですよ」と苦笑気味にいっていたことを思い出す。本当ですね。いい保険ですね。厳選していただいた甲斐がありました。

 

このような現実的な保障もさることながら、ひまわりお姉さんの大袈裟なほど感情を込めた声が、わたしには予想外に大きな慰めになった。夫はまだ元気なんです、ちょっとご飯が食べられないだけなんですよ、ウフフ、と条件反射で無駄に元気にふるまってしまっていたけれど、お姉さんに気遣われて胸が熱くなるほどほろりとした。冷静なつもりでいたけれど、ショックを受けていたんだと電話を切ってから気づいてしゅんとした。当事者であるもちおの前で動揺したらいけないと思って、お姉ちゃんモードだったのだった。

 

闘病期間中、こうしたささやかな言葉を通じて人の情けが身に染みることは何度もあった。

 

手術が受けられないとわかって化学療法を開始して退院する日、病院のエレベーターホールで腹腔鏡検査に立ち会った若い医師とばったり会った。彼は笑顔で「退院されるんですね。がんばってください!」といって、もちおと握手した。決意のある笑顔だった。未来があることを前提に励ましの言葉をくれたのはその医師だけだった。彼はもちおのベッドへ来たとき、無意識にカーテンを握りしめて離さなかった。それだけ悲惨な容態だとわかっていて、それでも未来に希望を託してくれたことを、わたしたちはそのあと何度も思い出した。いつかお会いできたらお礼を伝えたいと思う。

 


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告知の告知の戒厳令

B総合病院へつくともちおが目を丸くして待合室のベンチに座っていた。

「はてこさん、こっち。仕事は?」

「休ませてもらった」

「悪いね」

「そんなこといってる場合か」

「いや、ほんと驚いたばい」

わたしももちおもまだ実感がなく、どこか他人事だった。

 

A医師に紹介されたB病院の院長はA医師と旧知の仲で、院長のB医師は外科医だということだった。

「Aさんの紹介ですから責任をもって担当します」

B医師は癖のある銀髪を一つ結びにした迫力のある人で、見るからにやり手で経験豊富そうだった。

「これからすぐに検査をして、結果を見て手術の日取りを決めましょう。仕事は?」

B医師ともちおが仕事の予定と検査の日程を話し合っているあいだに、わたしは電子カルテの文字を手帳に書き写した。

「胃胸郭からの4型」

 

A医師からの紹介だからと検査日や手術日はその場で決められ、診察は午前中で終わった。もちおは午後から仕事に出た。そして結局この日から数週間、もちおは検査の日をのぞいて引継ぎや何かで仕事に出ていた。

 

告知を受けたことはこちらが知らせるより早くA医師からわたしの父に知らされた。父はどういうわけか当初「告知を受けたことを誰にもいってはならない」と戒厳令が敷いたため、話はややこしくなった。

 

「早く治して会社に戻ってもらわんと」

告知を受けたことを報告にいくと、父は張り詰めた表情でいった。

「そんなに簡単に治るものじゃないんだよ」

とわたしが話そうとすると、父は鋭く

「おまえは関係ない」

と怒鳴った。

 

「ほかの誰にも関係ない。だから俺は誰にもいうなって言ってある。女房にも言ってない。俺はAに聞いて、みんな知ってるんだ。これはもっちゃんの問題だ。おまえがあれこれ口出しするな」

「B先生はAもよく知ってる。腕は確かだってAもいってる。よく話して、もっちゃんが決めたらいい。いるものがあれば俺にいえ。誰にもいうな」

わたしはこの期に及んで妻であるわたしさえ蚊帳の外に置き、男の世界に口出しするなを持ち出す父に辟易とした。心のうちを話すどころではない。誰に話して誰に黙っておくかは舅でも雇用者でも上司でもなく、もちお自身が決めることだ。治療方針だってそうだ。少なくとも父よりわたしの方が当事者に近い。

 

父が義理の息子の死の影に心底おびえていることにはたと気がついたのは帰りの車の中だった。父は9年前に直腸がんの手術を受けていた。A医師はもちおの予後について、よっぽどなことを父にいったらしかった。

 

もちおは父の指示に素直に従った。おかげでちょっとした不調だと考えた人たちは仕事の電話をひっきりなしに電話が入れてくるし、体調を聞かれたもちおは「お腹の調子がちょっと悪い」と答えるしかなく、もちおは検査の前後も飛び回っていた。

 

後にブログでもちおのガンについて書いたときに「告知されたことはよほどのことがない限り黙っているべきだ」と考えている人が大勢いることを知った。実際がんの告知を受けたことを話すとびっくりするようなことを言われてショックを受けることは少なくない。

 

けれども現実問題隠しておくことが闘病上不都合な場合は多々ある。

kutabirehateko.hateblo.jp

 

 

 告知を受けたことを開示するかどうかは可能な限り当事者が決めることで、周囲が言うべきだ、隠すべきだと圧力をかける*1のは余計な負担を増やすばかりだと思う。

 

 


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*1:隠す理由がわからなかったんだけど、がん患者を不吉な存在として忌避する人が一定数いることを身をもって知ったいま、最後まで隠し通す人は周囲に心配をかけまいとしているだけじゃないんだなと複雑な気持ち。

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水を吐いて病院へ

三が日が終わり、仕事はじめがやってきた。

その日もちおは帰りが早く、わたしたちはローカルラジオの番組で紹介されたレストランへいった。ご飯とスープ類にメインのおかずを選び、サラダが取り放題というお店。もちおは相変わらず食が細くて、わたしたちは食欲がわくものを探して食べようと考えていた。

 

もちおは外食では「その方が得だから」と大盛にできるものは大盛にしてもらう。首都圏にラーメン二郎という店がある。量が多く脂がギトギトで有名な店。東京にいたころもちおは二郎で大盛ましまし(野菜増し、麺まし)を食べる男だった。

 

二郎圏外の福岡に越してからは身体を張ってラーメンに立ち向かうようなことはなくなったが、どうしたわけか仕事の合間にアイスクリームを食べるようになった。電車通勤からのロードバイク通勤をしていた日々は遠くなり、車生活で運動量は減り、当時のもちおは人生で最高に太ってBMI26~27くらいになっていた。ボクサーをしながら肉体労働に精を出していたころから見てきたが、見たこともないような腹だった。

 

ラジオで紹介されていた店のおすすめポイントは男性客大喜びのボリュームだった。もちおはいつもよりずっと控えめに皿におかずを盛り、席に着いた。しかしとった料理をほとんど口に運ぶことができなかった。

「サラダは?野菜だけでも食べられたらいいよ」

「うん…なんか詰まった感じがして苦しい」

「お水もってこようか?」

もちおは飲み込んだ料理を苦しがり、水を飲んだ。それでも詰まった感じは消えなかった。

 

ほとんど食べきれないまま店を出て駐車場へ向かう途中、もちおはどんどん具合が悪くなり、ついに路肩の排水溝で吐いた。胃痙攣を起こしているのだとわたしは思った。ところが出てきたのは水ばかりだった。

 

「水飲んで吐くっておかしいよね」ともちおはいった。もちおはこのときはじめて自分の身に、何か経験したことのない異常が起きていると自覚したようだった。「明日、Aさんの病院いってくるわ」

 

もちおの胃はこのとき中心部をガンで侵され、上下を残して齧られた林檎のような形になっていたことが後のバリウム検査でわかった。スキルス胃がんのスキルスとは皮のことで、ガンに侵された胃の粘膜は食物が入っても膨らむことができない。もちおがいっていた「詰まった感じ」とは、林檎の芯のように細くなった胃の中心部を咀嚼した食べ物が通過するときの圧迫感のことだった。一気に入ってくると通過の苦しさは液体でも変わらない。

 

会社の保険で毎年人間ドックを受けていたときにはバリウム検査も毎年受けていた。転職してからは毎年健康診断を受けていたけれど、バリウム検査は受けていない。不愉快な検査の代表選手として名高いバリウム検査だけれど、あのまま人間ドックを毎年受けていたらここまで進行することはなかった。

 

もちおが4年ぶりにバリウム検査を受けたのは細胞診検査の結果からガンがわかったあとだった。当時のもちおの胃壁は鍾乳洞のようにボコボコで惨憺たるものだったけれど、A医師は胃カメラでこの惨状を見てもまだガンだとは気づかず、「胃潰瘍やね~。薬出しとくけん。念のためちょっととっておこうか」と細胞診検査をして胃薬を出していた。翌週の検査結果を見ていちばん驚いていたのはA医師だった。

 


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マスオさんストレスと食欲不振

A医師らと別れたあと帰宅してひと眠りした大晦日の夜、一人暮らしをしている母から手料理を用意しているというLINEが入った。母は料理上手なのでいつもなら喜んでいくところだけれど、このときはもちおが二人で過ごしたいというので、断ってファミレスでパフェを食べた。正確にはわたしがパフェを食べて、もちおはいくらか味見をした。

 

はじめはフレッシュネスバーガーへいきたいといっていたのだけれど、店はすでに閉まっていた。もちおは「ざーんねん!」と言いながらも落胆する様子はなく、妻の手をつないで歩くことを楽しんでいた。

「あー、二人は楽だ。ストレスだと思うんだよね」

二人きりで夜の街を歩くもちおは上機嫌だった。わたしは「これでうやむやにはしまいぞ」と思う気持ちと、「本当に何でもないのならいいな」という淡い期待とで揺れていた。はたして元旦、もちおははてこ母が作る絶品お節と雑煮を二口食べただけで耐えられず横になった。

 

「我神散がいいわよ」と母はいった。

母は祖父母の代からの我神散愛好家で、胃腸の悩みにあの苦い粉末以上のものはないと思っていた。もちおは母の勧めで我神散を買ってはいたけれど、効果が感じらないようで、1、2包飲んでそれきりになっていた。

 

「だめよ、ちゃんと飲まなきゃ。病院はいったの?はてこはなんでいわないの」

「いってるよ。でももちおの身体のことはもちおが決めるでしょ」

もちおは弱弱しい苦笑いで座布団に頭を乗せて黙っている。

もちおは人をはっきり拒絶しない。ぎゃーぎゃー文句をいう相手は妻だけだ。舅姑のすすめはなんでも受け入れるそぶりを見せるけれど、まず自分の望まないことはやらない。押しの強い母はなんとしても確約を取り付けようとするけれど、本人が望まないことをいっても無駄なのだ。

 

それにしてもこの小食ぶりはどうしたことか。普段姑への不満の最後を「でもお義母さんの料理は本当に美味いからな」でしめるもちおは、土産に持たされたお節にもほとんど口をつけなかった。かわりにスナック菓子やアイスクリームなどジャンクフードを食べ、不調を理由に家にこもって漫画を読み、ベッドでだらだらして正月をすごした。寝正月をエンジョイするもちおはそれなりにしあわせそうだった。確かにストレスで他人が作った料理を受け付けなくなるということはある。このころはまだ妻が作ったクリームシチューなどはもりもり食べていた。

 

じゃあ大晦日の蕎麦屋は?

あれは舅一家とその客に囲まれていたのがストレスだったのかもしれない。

年末にお弁当が入らなかったのは?

それは連日の忘年会で胃が荒れていたのかも。

 

そうだろうか。暴飲暴食で一時的に胃が荒れて、そこに精神的なストレスもあって食事を受け付けなかったのだろうか。

 

もちお自身は間違いなくそう思っていたし、わたしもそう信じたい気持ちはあった。それが覆ったのはもちおが飲んだ水を吐き出した日、告知を受ける一週間前の夜のことだった。


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怖かったお通夜と人気ブログランキング

このブログを人気ブログランキング胃がんカテゴリーに登録した。

 

このランキングカテゴリーの怖いところは、上位ブログの「生前はお世話になりました」で終わっている率の高さ。わたしはビビりなのでこういうとき迷信的な不安を覚える。ここにリンクして大丈夫か。

 

もちおが術前検査をすべて終えて紛うことなきスキルス胃がんのあかんやつだとわかった日、かつての職場の先輩が転職先で突然亡くなったという知らせがあった。前日どころか、当日も普段通りだったそうで、昼休みの少し前に「気分が悪いから休んでくる」とひとりで車へ向かい、昼休みに同僚が様子を見に行くとすでに亡くなっていたとのことだった。

 

通夜は近場で行われるけれど、もちおはいかなくていいと連絡してきた上司はいった。個人的なつきあいがあったわけでも、とくに親しかったわけでもない。それに、「こういうときにもらってくるとよくないから」と。

 

本当にそう思っていたのか、自分の命もどうなるかもわからないもちおが身近な人の死に直面して動揺するのではと気遣ってのことなのかわからない。わたしはどちらも気になった。けれど、もちおは通夜へいきたいといった。

 

訃報を聞いたとき、もちおは検査を終えて今後の話がまだ頭に入りきらない状態だった。それでもすぐ通夜へ向かおうとしてまわりに止められ、「まずは自分が休まなければ」といったん家に帰ってきた。そのあと用事で外へでたとき「はてこさん、悪いんだけど、やっぱりお通夜へいってもいいかな」といった。

 

病院帰りのもちおは毛糸のへんてこな帽子と仕事用の上着、それに防寒のために買った登山用のモコモコしたパンツのままで、無精ひげを車の中で剃った。わたしも普段着だったけれど、頭の中で「お通夜はとるものもとりあえず向かうものだからいいんだ」と自分に言い聞かせ、調達した不祝儀袋にくしゃくしゃのお札を入れ、会場へ向かった。名刺がなければ先方はもちおを仕事帰りの日雇い労働者かなにかだと思ったと思う。わたしはせめて態度だけはと精一杯丁寧に礼儀正しくご遺族のみなさまにお悔やみを伝えた。

 

故人は40代。まだ若い奥様と小学生、中学生の息子さんの三人。ご遺族は緊張しきった面持ちで混雑した座敷の中ほどにある祭壇の前に座っていた。わいわいがやがや大騒ぎで飲んだり食べたりしている遠縁らしき人たちに囲まれ、三人は場違いなところへ無理やり引っ張り出された無関係な人のように見えた。

 

棺のなかにかつてお世話になった方がいた。たった一度車で送ったとき、息子を厳しく躾けるため、剣道を無理やりやらせているのだ、と豪語していたことを思い出した。身体には自信があるのか、自分のように逞しい男に育てたいのだといっていた。あれからまだ二年も経っていない。

 

「本当にお世話になりました。いまの会社でどれだけ活躍されることかと僕は思っていました」ともちおは奥様にいった。「お父さんは、本当に頭のいい人やったよ。俺は世話になった」と息子さんにいった。息子さん二人は泣くでも笑うでもなく、ただただ居心地悪そうに頭を下げた。

 

ガンでなくても人は死ぬんだ、とわたしは思った。なんの前触れもなく、とつぜん死んでしまうのだ。そうなったら取返しがつかない。数時間前病院を出たとき、すでにわたしには触れない遠いところにいってしまったように感じていたけれど、もちおが実際にはまだ生きて隣にいるということは、とても恵まれたことだと気づいた。

 

「あんなに世話になった人を会社がそんな風に見るなんて、俺は情けないよ」

会場を後にしたもちおは苦々し気にいった。わたしはそうだねと言えなかった。わたしも怖かった。日常に忍び寄る不慮の不幸に引っ張られるんじゃないかと不安だった。何もこんなときに。落ち着いてからでもいいじゃない、と思った。「落ち着いてから」なんていつになるかわからないのに。

 

でも、もちおはこんなときも自分のことではなく、故人とご遺族のことを思った。わたしはもちおのこういうところをとても尊敬する。

 

その後の闘病期間中、なんどもそのお通夜のことを思い出した。もちおはまだここにいる。前と違う姿でも、明日どうなるかわからなくても、いまもちおはここにいる。それはあたりまえのことじゃない。

 

人気ブログランキング胃がんカテゴリーの更新停止ブログと『生前お世話になりました』ブログの多さについて、そこにブログを登録することをどう思うかもちおに聞いてみた。

「ああ、俺もたぶんそのランキングみた」

「怖いよね」

「怖い」

「でも、生きてブログ更新してる人もいるんだよね。そういう人に、これまでしたこと、知ってほしいなと思う」

「うん、それは、ぜひ、登録してよ。俺、生きてるって」

 

そんなわけで、ブログランキングに登録しました。

わたしたちはあの頃標準医療で勝ち目がないところへ追い込まれても元気に生きている人のブログをとても読みたかった。長く続くといいなあと思います。

 


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大晦日の失敗

「ガンだって。これから紹介されたB病院へいくから、はてこさん来てくれる?」

もちおは一週間前に知人のA医師のもとで胃カメラを飲み、組織検査を受けていた。

 

もちおにがんの告知をしたA医師はわたしの父の友人で、もちおが前回A医師にあったのは年末、身内の集まりの席だった。

 

大晦日の昼下がり。もちおは次々に出される料理と酒を前に浮かない顔で座っていた。いつも舅の前では明るく元気なところを見せなければと気負っているのに、酒の席で空元気すら出ない。体の不調もさることながらもちおはそのことに苛立っているようで、「無理に食べることない」という妻に「お義父さんの前でそんなこというな」とキレ気味な返事をしていた。A医師は席が近く、このひそひそ喧嘩を聞いていた。

 

「どうしたと?」

「もちおさん、最近ずっと胃の調子が悪いんです」

「いわないでよ!」

「Aさんのところで胃カメラ飲んだらってもうずっといってるんですけど」

「ちゃんと検査したほうがいいばい。いつでもおいで」

 

A医師はとろんとした赤ら顔で年始の開業日を教えてくれたけれど、今度はわたしが内心キレていた。いますぐ診て。無理ならいますぐ診てくれる病院を教えて。蕎麦すらろくに飲み込めないなんてどう考えてもおかしいんだから、放っておかないで。

 

もちおの隣には数年ぶりに帰国したわたしの兄がいた。長年格闘技を続けている兄はボクサーだったもちおに敬意をはらっており、普段はわたしがもちおの身体のことをあれこれ心配すると「彼はプロとして自分の身体を考えてきたんだから」と諫める。しかしこのときは兄も義弟の様子がおかしいと思ったようだった。

 

「どこか悪いのか。病院いった方がいいぞ」

親族とわかれて車に乗ると、兄は強い口調で夫にいった。

「いや、胃がちょっと悪くてですね。年あけたらいきます」

「いや、このあとすぐいけよ。あるだろ、開いてるところ」

「んー、そうですね…」

 

よし、いまだ。もちおが義兄に遠慮してもにょもにょいっているあいだにわたしは近くで開いている病院を検索した。

「ここから車で15分だって」

「ちゃんといけよ。じゃあな」

 

兄が車から降りるともちおは烈火のごとく怒った。

「いかない!病院は来年いく!」

「来年になったらまた忙しいっていうでしょ」

「俺はもう疲れたの!いまから病院なんかいきたくない!いかない!」

「なにいってんの!」

「ずっとお義父さんたちにつきあって疲れてるんだよ」

そりゃ疲れるわな。身内のわたしだって疲れる。そういわれると後ろめたい。

 

「でも心配だから病院いって」

「そっちの心配のために俺はまたふりまわされるのか」

「だって本当にずっと具合が悪いじゃない」

いかない、いかないと駄々をこねるもちおを乗せ、わたしはGoogle先生の検索結果にしたがって病院へ車を走らせた。気のせいなんかじゃない。もちおは本当にどこかがすごく悪い。今日の怒り方はいつもと違う。

夫はふだんシリアスな場面でも人を食った冗談をいっては妻を煙に巻くのが大の得意で、ダジャレの一つも出ないときはだいたい熱があったり、お腹を壊していたりする。支離滅裂な言いがかりをつけてくるときはとくにそうだ。

 

病院は見つからなかった。なぜ見つからなったのかいまでもわからない。とにかく検索結果に出た場所に病院はなかった。もちおは不機嫌と体調不良と当てつけのトリプルコンボでこれ以上ないというぐらいのしかめっつらで助手席の椅子を倒して目をつぶっていた。

「ないね。なんでだろ」

「帰りたい」

「年が明けたら病院へいってね?」

「ああ、はいはい。いくっていってるだろ!今日は帰って寝る」

「わかった」

もちおは安堵と勝利で少し機嫌をなおした。

 

確かにもちおは結婚以来、わたしの親戚関係にこれ以上ないくらいつくしてくれている。逆だったらどれほどの気苦労だろう。客観的に考えればそれと病院へいくこととはトレードできる問題ではない。けれどもこのときもちおの頭の中では「病院へいかせたいのは妻だ、妻のために年末年始の予定をあけた上でさらにそれ以上の要求を呑まされるのは不当だ」ということになっていて、わたしはその勢いにおされて病院へ連れていくことを断念した。

 

A医師がいますぐではなく年明けに来いといったこと、病院が見つからなかったこと、いま振り返ればそれらも予定調和的な出来事だったように思う。

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