スキルス胃がんだったとは!

夫がスキルス胃がんステージ4の告知を受けてからのこと

GWとメメントモリ

がんの進行に対処するため胃切除手術か化学療法の再開か、何らかの治療が必要だと内科のR医師は診断した。外科のT医師は現在の病状なら胃切除手術は可能だと診断した。しかしT医師はR医師と違って「緊急に何としてでも」という調子ではなかった。

 

「これはあくまで僕の考えなんですけど、」と夫はいった。「前回胃カメラ検査を受けたあとから、生活を以前の状態に戻していたんです。だからまずそれを改めてどうなるか変化を見たい。もちろんそれで病気が進行するのは怖いし、R先生はそれを心配しておられるのだと思います。でも僕としてはこの変化が生活と関係していると考えずにはいられないんですよ」

 

「R先生は抗がん剤以外は何をやっても効果がないと考えていらっしゃるので、わたしたちが何をやっているかお聞きになることもありません。でもわたしたちはこの10ヵ月抗がん剤なしで体調が安定していたのは偶然ではないと考えています」とわたしはいった。

 

T医師は「R先生のおっしゃる通りで、」と引き継いだけれど、続きは予想外だった。「何をやっても上手くいくときは上手くいくし、その逆もあります」

 

治癒するとは思えない状態で完治する場合もあれば、その逆もある。胃切除が最善かどうかは結果論でしかない。化学療法についても同様で、どの薬をどの程度の期間使用するのが最適かはやってみないとわからない。

 

夫は常々「医者が何を知っていようと俺の身体を知っているわけじゃない。俺は自分の身体を確かめながらどうするかを決めたい」といっていた。夫はそのままのことを医師に伝えることはなかったけれど、こうした姿勢はときに、というか、しばしば、むしろいつも、「命を粗末にするのか」という反応を医師から引き出す結果になった。しかしT医師の話し方は威圧感がなく、いくつかの選択肢とそれぞれの可能性についての話はむしろ緊迫感を和らげるものだった。

 

夫の希望は1か月後に胃カメラで再検査を受けることだった。手術と化学療法を視野にいれつつ、まずは生活を闘病モードに戻して変化があるかどうか確かめたい。

 

内科のR医師は「何も手を打たずに治ることはない」とはっきり言った。一方T医師は「少なくとも僕が見た限りでは今日、明日にどうこうというものではないですね」といった。「連休中は病気のことは忘れて楽しんでください」

 

こうしてもちおの希望通り次の検査は一ヵ月後になった。がんを忘れることができるかといえばもちろん違う。でもそれが生活を圧迫するほどにはならずに済んだ。がんは慢性病なのだ。忘れてしまうよりいつも覚えて様子を見ておいた方がいい。わたしたちは今回そのことを痛感した。

 


人気ブログランキングへ

外科医の見解

内科のR医師の診察の翌日、わたしたちは外科のT医師の診察を受けた。もともとこの病院を選んだのは胃がんの外科手術に強いという評判を聞いたからだった。

 

夫は当初最初に検査を依頼したクリニックの紹介で別の病院に入院し、そこで手術を受けることになっていた。そこでの診断結果はステージ3b。ところが紆余曲折あって我々は手術日前日に手術を断り、現在の病院に紹介状を書いてもらった。実はこの顛末を書くのが大変なのでブログが中断していた。

 

こうして訪れた大学病院は見るからに明るく清潔で、最新の設備が整っており、事務手続きも院内の作りも機能的だった。祈りを込めて門をくぐった去年の2月、下された診断はステージ4。前の病院の検査結果を見てすぐに医師は腹水を認め、おそらく手術はできないだろうと診断した。続いてPET検査と腹腔鏡検査の結果により腹膜播種と腹水、数え入れないリンパへの転移が見られ、胃切除手術の道は絶たれた。

 

そして現在。再び訪れた外科病棟で、夫は再び胃切除について外科のT医師の見解を聞くことになった。「お久しぶりの受診ですか?」と尋ねる看護師をまえに、生きて再び外科病棟を訪ねることができたのはまず喜ぶべきことだとぼんやり思った。

 

内科医のR医師は穏やかに、でもとてもはっきり厳しい調子で緊急に手術を受けるか化学療法を再開することをすすめていた。一方外科のT医師はいくつかの可能性と選択肢を上げ、考える余地を残してくれた。

 

腹水も腹膜播種が確認できないほどになったいまならば、胃切除で一度にがんをごっそり体内から取り除くことができる。しかし胃切除が身体にとって大きな負担であることは間違いない。手術から回復するまで時間もかかるし、その後長期的に胃がない暮らしにまつわる問題*1もある。無駄に体力を消耗させては意味がない。

 

かつては予防と称して周辺臓器を手当たり次第に切除することもあったが、現在は転移がないことを十分に確認し、勝算があるなら最小限の切除をするのが標準的だそうだ。周辺の臓器とリンパも含めてどの程度切除するのが最適かは腹腔鏡検査とバリウム検査をしてみないと決められない。

 

実はわたしたちが前の病院を断ったのは、執刀医である院長が「予防のために取れるものは全部取る」と考えていることを手術の前日に研修医の口から聞かされたためだった。驚いて面談を依頼したが、そこでの話は手術も予後の治療方針もそれまで聞いた話とまるで違っていた。

 

医師は何が何でも大掛かりな胃切除手術を強行する気でいた。転院先ですぐにステージ4と診断されたことを考えると胃切除手術のためのステージ3b診断だったのではないかとすら思う。あのときそんな大掛かりな手術を受けていたら夫はここにいなかった。転院するときは大変な思いをしたけれど、あらためて転院できてよかったと思った。

 


人気ブログランキングへ

*1:胃切除後貧血やダンピングなど

胃切除手術をすすめられる

夫のがんが進行しているという話を受けて、わたしたちは一気に緊急モードに戻った。化学療法を中断して10ヵ月、10回の血液検査と3回のCT、胃カメラ検査を受けてきたけれど、進行しているといわれたのははじめてのことだった。安心しきっていた夫はとくに強いショックを受けた。

 

当日は病院の帰りにあてもなく車で遠出し、知らない山の中をぐるぐる走り続けた。数日落ち込み、さらに数日低空飛行で暮らした。そうした日々の最中にブログを書けたらいいんだべな、と思うけれど、結果的に書けなかった。わたしは仕事をしている時間以外は気を紛らわし続けていた。

 

わたしがはじめに感じたのは恐怖で、次に怒りが込み上げてきた。あれだけいったのにどうしてがんに餌をやるような暮らしを続けたのか。文字通り命がけで調べあげたあれこれをどうして無視するのか。ここ数か月の夫はどこまで無茶ができるか試しているようですらあった。

 

いうまでもなく夫はここ数か月の自分の暮らしを誰よりも後悔していた。夫は後は野となれ山となれで自棄になっていたのではなく、完治したのかもしれないと半ば本気で考えていたからだ。

 

夫が想定するがんの進行はまず腫瘍マーカーにあらわれ、次に胃カメラかCTで変化が確認できるというものだった。しかし今回の診断はいきなり胃カメラで目視できる変化からのものだった。

 

赤く腫れた胃壁の一部が盛り上がり、中心が火口のように凹んでいる。そこががんだろうと医師はいう。詳しいことはもう一度腹腔鏡検査をしてみないとわからないが、可能なら胃切除手術を受けてみてはどうか。

 

去年の春に胃切除手術が受けられると聞いたらわたしたちは喜んだかもしれない。もはや手の施しようがないからと、「治る見込みのない場合にのみ投薬を許可される」というオキサリプラチンによる化学療法を受けることにしたあの日から一年が過ぎていた。

 


人気ブログランキングへ

再発

昨日は3ヵ月に一度の胃カメラとCT検査、月に一度の血液検査の日。夫の胃がんが進行しているかもしれないという診断を受けた。

 

重なる時は重なるもので、同日関西の祖母が脳梗塞で倒れたという知らせもあり、わたしは目下の懸念事項だった複数の仕事を終えて次の締め切りに入ったところだった。

 

昨日福岡は雨だった。駐車場から正面玄関は遠かったので、夫は入退院用の出入り口を通って院内に入ろうとした。わたしはこの出入り口が嫌い。入院中の夫を見舞いに通った通路からだ。少し歩いても正面入り口から入りたい。

 

「え!いやなの? 何でもないよ。結果を聞きに行くだけだから」

夫は最近完全に油断していた。タンパク質とビタミン補給に作っていたシェイクは冬の間飲まず、毎日続けていたコーヒーエネマは週に1度から10日に1度に、2時間置きに飲んでいたリボゾームビタミンCも8時間に1錠になり、一日置きに通っていた温泉にもずいぶん長い間いっていない。

 

人と食事をすると「糖質制限をしているので」と断りを入れるけれど、徹底してに避けていた小麦製品、コンビニスイーツなどを茶目っ気たっぷりに妻の顔色をうかがいながら食べ、ご飯も普通に食べている。わたしがゆるすかどうかの問題ではないのだけれど、見つかると怒られるから機嫌を取っておこう、という調子。

 

ついに見かねて「糖質制限、してないじゃない」といったところ、すっかりヘソを曲げ「俺は我慢してた、でもも糖質制限はやめる」と当てつけのように麺類やパン、小麦製菓を食べ始めた。

 

要するに夫はここ数か月で発病する前の暮らしにすっかり戻った。寒い部屋で薄着をして深夜まで何か作業をする。床で寝る。「寒い、寒い」と言いながら窮屈だからと厚着をしない。

 

それでも血液検査の結果はいつもよかった。遊び呆けてテストを受けた学生が結果を聞きに行くように、夫は12月頃まではビクビクしながら検査にいったが、何をやっても腫瘍マーカーが上がらないので本当にもう治ったのだと考え始めていた。

 

「今回、胃カメラの結果に、少しまた、大きくなり始めているという所見がありました」

R医師ははじめて会ったときのような緊張した面持ちでそういった。

「CTと血液検査には異常ありません。転移も見られませんし、胃の壁も厚くなってはいません。数値はむしろよくなっているんです。でも、ここに」

R医師はディスプレイに映る3ヶ月前の胃壁と今月の胃壁を指さした。

「この、少し凹んだところ、わかりますか。ここの周りが、今月少し盛り上がってきている。お薬で抑えていたガンが、少しずつ大きくなってきているのだと思います」

 

化学療法をやめたのは去年の6月。かれこれ10ヵ月のあいだ抗がん剤が効き続けていたとは考え難い。わたしたちはこの3ヵ月の暮らしの変化を思い返さずにはいられなかった。

 

このブログを中断していた理由のひとつは、あの頃の出来事は思い出せても恐怖と不安を思い出せないでいるせいもあった。思い出すとあの頃が戻ってくるようで怖くもあった。現在と切り離しておかないと危ないと、どこかで思っていた。でもその恐怖と不安は一瞬で戻ってきた。ああ、こうだった。こんな感じだった。いま書いておかないと、また忘れてしまうだろうと思った。

 


人気ブログランキングへ

階上の隣人の話

ご近所さんが咽頭がんで亡くなったことを昨日知った。わたしももちおも落ち込んでいる。

 

いま私たちは古い分譲団地に住んでいる。団地に住むのははじめてで、引っ越しが決まったときは未知なるご近所づきあいの世界に身構えた。しかし実際住み始めてみると回覧板をまわす以外にこれといった繋がりはなく、名前を憶えたのは同じ階の方だけだった。

 

団地で暮らし始めて数年経ったある朝のこと。玄関前を掃除していると日焼けした恰幅のよい年配の男性がクーラーボックスを抱えて階段を上がってきた。知らない人だったけれど、なんとなく声をかけやすい雰囲気があった。

「おはようございます」

「お?おはよう」

「何を釣ってこられたんですか」

「鯵」

「へー!いーなー」

「うちじゃ食べないの。みんな近所にやっちゃう」

「えー、うちもほしい」

「鯵、好きか?」

「すきです!」

「自分でさばける?」

「がんばれば!」

「なーんだ、じゃあさばいて持ってきてやるよ。いっぱいあるから」

「ほんとに!やったー!」

 

釣り人はしばらくするとさばいた魚と冷凍した蛸をもって降りてきた。釣り人は上階の住人だった。そして「冬は牡蠣をとる。潜ってとるから、美味いよ」といった。

 

それから何度も美味しいものをちょいちょい持ってきてくれた。海の幸、山の幸、どれも地場でとれたものばかりだった。顔が広いようで、知り合いから贈られてきたというものもたくさんあった。「みんな冷凍してる。食べきれないから」とその人はいった。男性はひとりで犬と暮らしていた。近所に別れた女房と娘が住んでいるといった。「ひとりはいい。好きに暮らせるもん」。

 

わたしたちはぶっきらぼうにチャイムを鳴らして美味しいものを気前よくわけてくれることを別にしても、その人のことが好きだった。はじめて会ったときからすぐに仲良くなりたいと思った。「地元のおもしろいところを教えてくださいよ」といったら、しかめっ面をしながらどこへいきたいのかといった。本当に、その人と三人でどこかへいってみたいと思っていた。いつかもちおの仕事がひと段落したら。いつかあちらの都合がいいときに。

 

食事やお茶に誘うと「いい、いい」と遠慮した。「じゃあ、そちらにうかがいますよ」というと、ぎょっとした顔をしていたけれど、それからしばらくして「家、片づけたから」といってきた。よし、じゃあお邪魔しよう。何かすてきなものを持っていこう。それが見つかったら、もちおの仕事がひと段落したら、いつかあちらの都合がいいときに。

 

去年もちおがどうにもこうにも大変だったとき、わたしも何も食べられなくなった時期があった。ちょうどその頃、階上の隣人がいつものように突然チャイムを鳴らし、ぶっきらぼうにビニール袋を突き出して帰っていった。デコポンか何か、無骨な柑橘類だった。わたしはそれを鉢に盛って、長いことそのままにしていた。

 

ようやく食べたのはもちおが入院してわたしが一人で家にいたころだったと思う。とても美味しかった。みずみずしく爽やかで泣きたくなるようなやさしい酸味と甘みがあり、キリキリしていた胃に不思議なほどやさしかった。わたしは名も知らぬ謎の蜜柑をたいせつに食べた。もちおにも取っておいて、退院してからひとくちずつ口に運んでやった。それはそれは美味しかった。

 

ある日、ポストに走り書きをしたノートの切れ端が入っていた。「しばらく家を空けるので回覧板は飛ばしてください」末尾に階上の隣人の名前が書いてあった。

 

長い留守が続いて、年末のある日、ようやく階上のドアが開く音がした。謎蜜柑のお礼がてらうかがうと、少し痩せた隣人が出てきた。そして「咽頭がんでね」といった。「手術して、とれるものはみんなとってくれっていったんだ。抗がん剤も強いやつをどんどんやってくれって」。

 

もちおもがんだと話すと少し驚いていたけれど、一緒に温泉へいかないかと誘うと「いい、いい。俺は長生きなんてしなくていいんだ。もうめんどくさい」といった。そういいながら「胃ろうを受けたんだ」とシャツをめくり、「自分でここから入れられるように、やり方聞いたんだ。看護婦がびっくりしてた。自分でやる人いないって」と少し誇らしげにいった。それから「さっきパックの飲料も飲んでみた。飲めたよ」といった。「犬を娘のところへとりにいかなきゃ」。

 

ほんの半年前まで釣りに旅行にと飛び回り、犬を散歩し、友達を呼んでは料理をふるまい、季節がめぐるたび旬の美味しいものを届けてくれていた人だった。ほんの少し痩せたけれど、相変わらず恰幅がよかった。わたしには生きることがどうでもよくなったようには見えなかった。「いい、いい。それよりこれを持ってって。これはね、」とまた何か美味しいものを出してきて、くれた。してやるのがすきで、してもらうのは苦手な人だった。

 

それから一か月もしないうちに階上の隣人はまたいなくなった。ポストにはガムテープが貼られた。冬場ひとりで過ごすのはきついだろうと思っていたので、入院したのなら少しでも楽にすごせるといいなと思っていた。帰ってきてほしかった。帰ってこなかった。

 

昨日は朝から軽トラックが何台も来ていて、階上の部屋のドアは久しぶりに大きく開いていた。次々運び込まれる荷物は引っ越すあてがなく、どれも処分されるそうだった。

「亡くなったんだって。トラックにいた人に聞いたら『娘さんの依頼で、ぜんぶ処分するんですよ』っていってたよ」ともちおがいった。

 

これで階上の隣人とわたしたちの話はおしまい。わたしが大好きだったあの人はもう魚を持って上がってこない。冷凍庫の中にはもらった巨峰がまだ凍ったままだ。何ができたんだろうと思う。何かできたんじゃないかと思う。また会いたいなと思うし、会えないんだということが強い説得力を持って迫ってくる。

 

悲しいだけじゃなく、怖い。

 

種類も違う、治療方法も違う、対策も違うし予後の経過も違う、年齢も体力も違う。ただがんだということ以外共通点がない。それでもがんで誰かが亡くなったと聞くのは、もちおががんになる前とまったく違う重みがある。

 

物語と違って現実はあとになってみないとそれらしい落ちがない。この話も昨日の今日なので、いまはまだこのことがわたしたちにどんな衝撃をあたえたか、上手く言葉にできない。


人気ブログランキングへ

ありがとうエピソード がん闘病看護漫画「今日から第二の患者さん」

結婚間近で三十代の婚約者に大腸がんが見つかったという漫画家の青鹿ユウさん。

結婚14年目に四十前の夫にスキルス胃がんが見つかった我が家とはちょっと違うけれど、二人だけの暮らしで女性が看護側に立つという点で共感できるところがたくさんあるお話だった。

 

「第二の患者」とは看護者が看護を続けるうちに心身のバランスを崩し、いわば二次災害のように病んでしまうことだそう。わかるー。これって介護者に介護が必要になることや、育児中のお母さんが自分にも世話してくれるお母さんがいたらって思うのと似てる。ひとりで重荷を背負うのは心身ともに健康な人でも大変だってことよね。

 

看護や介護、育児には共通する大変さがある。

 

・金銭のやりくり

・時間のやりくり

・複数の各種事務手続きを期日までに提出する難しさ

・予測がつかない状態の生きている人間を相手にすることにともなう緊張

・断続的な仕事が延々続いて終わりが見えないこと

・未経験でありながら命に関わる決定を迫られることの重圧

・個人的な休息をとることの難しさと後ろめたさ

・理解しあえる仲間を見つけることの難しさ

・平常運転の社会の話題についていけず孤立しがち

・孤立した状態で自責の念が募ることが増え、自尊心が低下しやすい

 

というわけで、看護、介護、育児にたずさわる人が暗い顔をしているのは暗い想像で頭がいっぱいなだけってわけではない。逆にいえば命の算段はどうにもならないけれど、事務手続きを手伝ったり、一日なり数時間なり休みをとれるように助っ人に入ったり、食事を届けたり、傾聴したり、平常運転界の様子を伝えたり、尊敬できるところや愛すべきところは遠慮なく言葉で、態度で伝えたりは、まわりの人にもできる。

 

現在公開中の第12話「ありがとうエピソード」には、そんな周囲の助けがどんなに力になるかというお話。

comic.pixiv.net

がんに限らず、看護、介護、育児にたずさわる方が身近にいらっしゃる方、そして看護、介護、育児にあたっておられる方、お世話になった方、なっている方に、ぜひ読んでいただきたい。

 

わたしたちはいつもしてもらう側にいるわけでも、してあげる側にいるわけでもない。どちらの側に立つときも互いの立場で力になり、慰めになれたらいいなあと思う。 


人気ブログランキングへ

「胃がん 4型」

もちおが告知を受けた日の深夜。

わたしはもちおが眠った後、リビングでひとり「胃がん 4型」で検索した。4型とはスキルス胃がんと呼ばれる進行がんのことだった。

 

スキルス胃がんは胃粘膜に浸潤するタイプのガンで、発見が難しく進行が早い、そのため生存率が低さが顕著だということだった。逸見政孝手塚治虫はスキルス胃がんで亡くなった。2012年に宮迫博之もスキルス胃がんで手術をして胃の1/3を切除していた。

 

がんは進行の度合を四段階にわけてステージ1、ステージ2とステージごとに呼ぶ。もちおがどのステージにいるのかこの時点ではわからなかった。しかし検索結果はとにかく暗い話ばかり。明るい口調なのは「まず治ることはないので旅行にでもいって、やりたいことをしてすごしましょう」と他人事のやけくそ気味なものだけだった。

 

ないの?なんか、ないの?治った話とか、効果的な治療法とか。

 

「そうか。年末の胸ふたがれるような予感はこれだったのか、なるほど!」という映画でも見ているような気持ちと、「待って待って、待って待って待って、ちょっと待ってやめて、元に戻して」という気持ちが襲ってきた。突然屋上の柵の向こうへ押し出されたような気分だった。

 

寝室に戻り、眠っているもちおの横顔を眺めていたらびっくりするほど泣けてきた。

起こしたらいけない。わたしは落ち着いていないといけない。喉を絞めて声を殺すと苦しくて、もちおも苦しいのかなと思うとさらに涙が止まらなくなった。

 

「あんなにいったのに、どうして無茶ばかりするんだ!」と腹立たしくやりきれない気持ちと、「わたしと一緒にならなかったらこんな苦労もしないですんだのに。結婚したのが間違いだった」という思い。「待って待って噓でしょ」「やっぱりね、あれもこれもこのことだったのよ」もぐるぐるまわって夜は更けた。

 

この頃のもちおは食べられないだけで、肌つやもよく、声にも覇気があった。たくましい腕に厚い胸板ですやすや眠るもちおはいたって健康そうに見えた。「いつかもちおがいなくなる日が来たらどうしよう」とこれまで何度も思ってきたのに、まだ何の覚悟も出来ていない。

 


人気ブログランキングへ