スキルス胃がんだったとは!

夫がスキルス胃がんステージ4の告知を受けてからのこと

蟹の贈り物とビットコイン

「がんに罹患して得たいいものをキャンサーギフトっていうんだって。蟹の贈り物」

ともちおに聞いた。

 

蟹がやってきて、もちおが得たものは書斎と書斎で過ごす時間だ。どう使うにも使い勝手が悪く、何より真夏以外は寒くていられないので使わなかった四畳半は現在もちおの城と化し、もちおは一日中書斎にいる。

 

はじめもちおは家で仕事を続けたいからと新しいパソコンを欲しがった。会社のサーバーを遠隔管理する。HPを更新する。だから高スペックマシンが必要だ。何でも希望が持てることならおやりなさいよ、とわたしは家電量販店まわりにつきあった。保険の一時金100万円で30万円するVAIO Z Canvas を買いたいと言い出したときは今後の出費にどう備えるのかと反対したが、親族は「そのくらい買ってやれ」と同情気味だった。それほど「冥途の土産に」という空気は濃厚だった。

 

もちおは有り余る時間をPCのリサーチに当て、やがて個人輸入で安くVAIO Z Canvasを手に入れる方法を見つけた。そして自分の小遣いで憧れのVAIO Z Canvas を手に入れて大いに喜んだ。「これを国内で売ればいい小遣い稼ぎになる」と思ったのだった。

 

もちおは小遣いで買ったと偽り、妻に黙って方々から受け取ったお見舞いを全額パソコンと周辺機器の購入に充て、やがて四畳半いっぱいに中古パソコンとジャンクパーツを広げるようになった。足の踏み場もない。わたしは寒い四畳半に籠城する夫が心配で、義父に頼んで四畳半の壁を覆う書棚と広い作業机を作ってもらえないかと頼んだ。

 

義父はいつものように怒ったような困惑顔でやってきて、長男嫁の書いた設計図を難しい顔で持ち帰り、翌週作りやすいように書き直して戻ってきた。それから作りやすいサイズと使いやすいサイズの違いについて嫁とひとしきりやりあったのち、泊まり込みの突貫工事で書斎を完成させた。(このときわたしは義父への謝礼をいただいたお見舞いから出そうと話し、もちおの使い込みは終にばれた。)

 

壁一面の本棚。並んだディスプレイと広々した作業スペース。わたしの妹からの見舞い金で座り心地のいいリクライニングと足置きもついたパソコンチェアーも買った。インテリア雑誌に投稿したいような見事な出来栄えだった。

 

居座る蟹により自宅に居続ける時間ができ、お見舞いを資本にPC周りのあれこれを手に入れ、使い勝手のいい書斎を手に入れたもちおは当初の話はどこへやら、俄然個人事業に力を入れ始めた。書斎は再び立錐の余地もない洞窟と化している。最近ではマイニングに手を出し、日々ビットコインの値動きを注視している。

 

いま我が家には暖房器具と化したマイニングマシーンをずらりと並べたスチールラックが書斎に一台、居間に一台ある。せっかく舅が断熱してくれた四畳半は暑くてたまらないらしく、11月に入ったというのに書斎の窓はいつも開いている。尋常ならざる電気代を見て、夫は機械のドワーフを使って白熊を殺す仕事をはじめたのだと思う。

 

「電気代は俺の口座から引き落とすようにするから」

入院中も遠隔でマイニングマシーンのチェックをしながらもちおはいう。PC周辺機器は売れた端から新たに買っているし、マイニングマシーンを組み立てるまでずいぶん資本かかったそうだから、儲かっているのかどうかわからない。儲かってしまったらかえって税金で困ったことになるのではないかと数字に疎いわたしはハラハラしている。

 

「こないだパソコンを売った人からお礼のメールが来てね」

そんな話をするときのもちおは生き生きしている。満を持して支店を任され、挨拶回りもすんでいよいよというときにがんが見つかり、もちおの落胆ぶりは大きかった。元来もちおは友人知人を家に招くことを嫌うので、社会との接点は仕事以外にない。このまま二人だけの暮らしでどうなることかと思ったけれど、蟹はもちおが夢中で打ち込める仕事と、それを支える場と資本を持ってきてくれたようだ。わたしとしては贈り物だけ置いて、蟹はどこか遠い海へ帰ってくれたらもっとうれしいのだけれど。

 

 


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苦しいときは針を持ちます

編み物好きな義母が帽子を編んで山ほど送ってくる。

 

「私にできることはこれしかないと思って、一生懸命帽子を編んどるんよ」

「もちおさんはお義母さんが編み物をしてもとくによくならないので、家事をしてください。そして片付いた部屋の画像を送ってください」

以来、義母は電話をかけてこなくなった。

 

義母は夫ががんの告知を受ける前から家事、とくに家計の管理と部屋の片づけが病的に苦手で、手芸、とくに編み物にかける情熱にはひとかたならぬものがあった。息子の病を口実にこれまで通りの暮らしを一途な母心として語られるのはおかしな感じがした。

 

電話は止んだが義母はことあるごとに編んだ帽子を届けてきた。書斎の壁一面に棚と机を作ってほしいと義父を招いたとき、義父は「母さんがこれ、もちおにって」とドングリが被っているようなニット帽を7つも寄越した。化学療法の副作用として脱毛があるならわかるが、もちおは生来の薄毛はそのままながら副作用としての脱毛はいまのところない。

 

キングギドラじゃないんだから」

キングギドラだって頭は7つしかない」

「これ、被ってほしいってことなんでしょうか。人に差し上げてもいいのかな」

「被ってほしいんだろう」

息子夫婦の呆れ顔を見て義父はムッとしていったが、あとで義母に電話をかけてみると

「好きにしていい、欲しい人にあげても、売ってもいい」

といった。義母は編んだ帽子を店に卸したり、フリマで売ったりすることも熱心で、この帽子は試作品なのではないかとわたしは思った。

 

こんな義母の手芸熱と家事放棄の大義名分に思えた「私にできることはこれしかない」の意味がわかったのは、好きだった料理にも得意だった片づけにもすっかり手がつかなくなり、眠れぬ夜に徹夜でブックカバーを縫い続けたあとのことだった。

 

わたしはただひとりの家族である夫を思ったよりずっと早く失うかもしれないという恐怖で参ってしまい、それまで得意で、自慢にすら思っていたこともできなくなった。ひとまとまりの長い文章を書く方法を思いつかず、落ち着いて本を読むこともできず、ただただ文字を追いたくて、一時はTwitterに入り浸り無数の泡を追うようにTweetを眺めながら神経を飽和させることに終始した。これにも疲れた。

 

腹が座って居直る覚悟ができたあと、わたしはTwitterを追う代わりに音楽を聴きながら久しぶりにミシンを踏んだ。本が読みたくなり、早川文庫サイズのブックカバーを作ろうと思ったのだ。

 

ミシンを踏むなんてとても調子がいい。型紙を作り直し、ほどいては縫い直すだけの根気が戻ってきた。はじめはそう思ったが、作り始めて三日目に白み始めた空を見てそうではないと気が付いた。眠れない夜の恐怖と焦りを弛緩させる術として、神経を高ぶらせ麻痺させるネット依存から手仕事に切り替えただけなのだ。

 

「もちおのことを思うと、もうずっと眠れんのよ」

という義母の言葉を、

「母さんはずっと編み物をしてる。夜中も起きて編んでる」

という義父の言葉を、そのときようやく理解できた。義母は本当にそれしかできないからこそ編針を持ち続けていたのだ。平素から苦手な部屋の片づけなんて出来るはずがない。片づけは今後の人生を受けて立つ覚悟なしにはできない。

 

さまざまなサイズの本の山といくつものブックカバーを眺めながら、この眠れぬ夜の副産物を義母はうちに届けていたのだなと思った。ネット依存よりずっといい。義母に手仕事という趣味があってよかった。

 

「ショックを受けたとき、苦しいとき、料理をするか針を持ちます。忙しくてどんなに時間がなくても、針は持ちたいと思うの。気持ちがスーッと静かになっていきます」

青森県弘前市に「弘前イスキア」を開き、生涯の終わりまで人助けとして食事を提供し続けた佐藤初女さんの言葉を思い出す。


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TS-1 再び

10ヵ月の休薬を経て再びTS-1の世話になることになった。

 

結果的にこれは何の効果も発揮しなかった。夫は高価な薬代と副作用だけをくらった。保険適応で5~6万円の薬を三週間ごとに買うのだ。がん関連で金銭感覚がおかしくなると、高価な健康食品を見ても安いものだと思えてくる。わたしは薬の有効期限を尋ね、去年飲み残した薬を数えてその分今回買う薬を減らしてもらった。

 

抗がん剤はどれも基本的にがんだけを狙い撃ちすることはできない。全身の細胞分裂を抑えるので、新陳代謝が阻害される。結果的にがんが増殖する速度が落ちる。その隙に免疫細胞ががんを片づける。抗がん剤が効くとは、免疫細胞ががんを片づける速度が、がんが増殖する速度を上回るということで、抗がん剤はがんを直接叩いているわけではない。一にも二にも免疫頼みである。しかし抗がん剤は免疫も衰えさせる。抗がん剤の無差別攻撃は敵の威力を衰えさせるかわりに味方の力もそぐのだ。

 

抗がん剤が効果を発揮するかどうかは試してみるまでわからない。治験である程度の結果が得られているとはいえ、個々の身体の反応はPCパーツの組み合わせ以上に複雑だ。

 

ムカつきと倦怠感、船酔いと二日酔いのような気分の悪さ。やっと少し気分がよくなると次の薬の時間だ。今回はエルプラットの投薬がない、TS-1の副作用だけなら軽いもので済むと予想していたもちおはすっかり参ってしまった。

 

「自分で自分を刃物で切り付けているみたいなんだ」

もちおは苦々しい顔で高価な薬を眺めていった。飲むと楽になる薬ならすすんで飲む気にもなるが、身体が嫌がっているのだか無理もない。箇条書きにされた副作用一覧の中にはがん以外の致死的な病への罹患もあった。一か八かで毒を飲んでいるのだ。

 

今日は風邪気味だから、今日はもう時間が遅いから。なんだかんだと理由をつけてもちおは服薬を欠かした。見ている側にすれば散発的に感覚が開くことでがんがかえって耐性をつけるのではとハラハラする。しかし飲めば飲むほどよくなるというものでもないのはわかっている。苦しい副作用に耐えるのも、命を秤にかけるのももちおだ。

 

わたしは複雑な気持ちでせいぜい気分がよくなりそうな話題をふってみたり、寝床を整えたりすることしかできなかった。わたしも気が滅入る。怖い。家事に手がつかない。仕事でミスをして怒られる。こんなとき漫画にずいぶん助けられた。「これからの暮らしをどうしましょう」という話題が暗いときに、「この先の展開はどうなると思う?」と楽しく語り合える話があってよかった。

 

こうして埒が明かない4クールのあと、遂にオキサリプラチン、つまりエルプラットの点滴も再開することになった。身体にプラチナを入れるのだ。

 


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 二度目の内視鏡手術

「CTで確認できなかったがんが胃カメラで見つかった」と告知された4月の終わりからのことを簡単に書いておく。

 

5月に入院して内視鏡で検査手術をした。「去年2月に見られたリンパ節への転移が消えていたら、そのまま胃の全切除を受けてはどうか」と内科、外科双方から勧められた。現代医学の見解では胃の全切除以外にスキルス胃がんの根治はない。唯一の望みだった手術ができないと言われたあの日から一年、果たしてあの無数のリンパ節転移は消えていた。

 

夫もちおはさして迷うこともなく胃切除を断った。

「胃があるから食べられている。これで食べられなくなったら体力が持たない」

手術前に一年ぶりに撮った胃のレントゲン写真を見た。胃粘膜を苔のように覆うがんに侵され、絞った雑巾のように細くなっていた胃は、不格好ながらも胃らしい膨らみを取り戻していた。クリスマスのプレゼントを詰めるブーツのような形をしている。

 

「スキルス胃がんで胃が回復する割合はどのくらいなのでしょう」

わたしの質問に医師は首をかしげて唸った。

「年々お薬がよくなっていますから、これだけきれいになることがあるんだと、僕たちも最近ようやく知ることができるようになったというのが正直なところです」

要はまさかここまで回復するとは予想もしていなかったということだ。事実、再発宣言を受け、検査手術を終え、TS-1の服薬がはじまってももちおの食欲は衰えなかった。満腹になるまで腹いっぱい食べられた。だからこそ胃を切除することは惜しかった。

 

この選択が延命という点で正しかったのかどうか、わたしは今もよく考える。もちおはそれでよかったのだという。けれど病状が悪化し、徐々に食が細くなってから「あのとき切っておいた方がよかったかな」と苦し気に腹をさすりながらぽつりとこぼした日のことをわたしは忘れられない。

 

外科は最大限夫の意思を尊重してくれた。一刻を争って全切除をとすすめていた内科医も検査手術のあとは夫の決断を支持し、化学療法に気持ちを切り替えてくれた。

 

かくして再びTS-1の服薬がはじまった。残念ながらこれはまったく効果を発揮しなかった。


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居直り料理

春の終わりに書いてから更新が止まっていたけれど、結果的にはこれといった生活の制限もなく普通に暮らしている。

 

結果的に、というのはその間に検査があり、手術があり、化学療法での試行錯誤がありと心労はひとかたならぬものがあったということなのだけれど、何はともあれ食事の制限も生活の制限もなく、面倒を見る子供や老人もおらず、さまざまな助けによって経済的にも何とかやっていけるのだから、贅沢な悩みなのではないかと内心後ろめたいような気持ちになることもある。

 

そうはいってもスキルス胃がんは治療法がなく、命にかかわる慢性病であることは変わりない。たった一人の夫が明日をも知れぬ身だという事実はわたしには落ち着いて物事を考えられなくなる程度には重い。

 

経済的には何の心配もなく、妻と子供に囲まれ、情報にも人脈にも恵まれ、後世に残る大きな仕事を成し遂げていたスティーブ・ジョブズと彼を囲む人々だって告知されてからの日々は辛かっただろう。

 

常にストレスにさらされることで衰えたわたしの認知力がとくに強くダメージを受けたのは日々の食事をどうするかということだった。

 

台所を預かる人ならおわかりになると思うが、料理とは材料を買いそろえるところからはじまり、献立を考え、残りもののやりくりをし、配膳と後片付けを終えて数時間後にはまたすぐに次の料理を考えなければならず、体力よりも頭がまともに働くときでなければ作れないものだ。

 

ことにいまは失敗すれば夫の寿命が縮むと思うと責任重大である。わたしが全責任を負って命を預からなければならない。夫は病人だし、そもそも夫はこうしたことは普通以上に疎い。予算と栄養バランスどころか自分が空腹なのかどうかも立ち止まって考えなければ気づかないほどだ。

 

台所に立つのが怖い。冷蔵庫を開けること、食材を選ぶのが怖い。とうとうわたしは料理をまったく作れなくなった。夫はネパールカレーを食べていればほかに何もなくて構わなかった。カレーに飽きると牛丼を食べて、大戸屋で定食を食べた。すべて外食。我が家の食費はこれまでの人生で考えたこともない額になった。そのレシートを家計簿に書き写すこともできなくなった。眠れない。家事ができない。わたしは病気ではないのに、恵まれているのに、気力を奮い立たせることができない。

 

この状態を打破したのは9月に入ったある日のことだった。

 

もう限界だ。これ以上外食を続けるのはわたしが嫌だ。わたしはもともと自分が作る料理が世界でいちばん好きだ。自分好みの味付けで、自分が選んだ食材を、自分の家で、気に入っている器によそって食べる。これに勝る喜びはない。そうして作った料理が夫の寿命を縮め、命を奪うとしても、もう仕方がない。どこかに理想の食養生があるとしても、わたしにはできない。やりたければ夫が自分で作るか、夫にそれを食べさせたい人が作ればいい。わたしはわたしが食べたいものを作って、自分の命と自分の人生を立て直そう。そう思った。

 

いうまでもなく責任を丸投げして外食したところで出てくる料理は理想の食養生でも何でもない。どちらかといえば自然志向の母から添加物や農薬を徹底して排除する食生活を叩きこまれたわたしの手料理の方がずっとましだ。完璧から程遠いものだとしても。

 

そんなわけで、この日からわたしは背負っていた食養生の悪霊の怨念から解き放たれたように作りなれた料理をまた作り始めた。

 

青菜の煮びたし『油揚げの原料である大豆はパレオダイエットでは危険物』『酸化した油の摂取は細胞を傷つける』雑穀ご飯『白米はがんを促進させる糖質』豆腐とわかめと葱の味噌汁『米味噌は糖質、麦みそはグルテンオピオイドを発生させる』『豆腐は大豆食品であり危険物』義妹が送ってくれたマヌカハニーで甘みをつけた切り干し大根の含め煮『加熱したマヌカハニーの栄養価は?』

 

食養生の悪霊は引き続きわたしに呪詛を吐き続けた。わたしは「そうだね、これを食べたら死ぬかもしれないね。運がなければ」と返しながら料理を続け、夫に出した。数日後、食養生の悪霊が手をまわしたのか、親族が突然がんと食養生の本を二冊送ってきた。夫が食事前に開封して読み始めたので本は長いこと食卓にあったが、わたしは手に取ることもしなかった。もういい。もうたくさんだ。知るか。Let it go, Let it beだ。

 

それでもひじきとピーマンのおかか和えの栄養価を調べたら「ひじきには発がん性がある無機ヒ素が多量に含まれるのでフランスでは危険物だ」とあり、三日ほど落ち込んだが、三日目に立ち直り、よく茹でこぼしたひじきでまたおかか和えを作って出した。ひじきのピーマンおかか和えは美味しいのだ。

 

夫の病状と病院との連絡はあまり上手くいっていない。そういう意味では何が解決したわけでもない。けれども再発に脅えて台所に立てず、食事のたびに出歩いて散財していた日々は去った。いつまでこうしていられるかわからないけれど、ともかくいまは家で食べなれたものを出せる。夫がそれを飲み込み、消化できること、美味しいねと笑いあえることがしあわせだ。

 

これがこの半年の進展。


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ネパールカレー健康法

前回の胃カメラ検査をした17年12月以降にいつのまにかやめてしまった健康法のひとつは食生活だった。去年の夏から夫は家ではモロヘイヤ玄米パスタを、外ではネパールカレーと大麦のロティを食べ続けていた。

 

がんの餌になる糖質をなるべく減らす、とくに小麦を避ける食生活を組み立てるのはなかなか難しかった。炭水化物抜きとは要するにつまみ系なので居酒屋メニューを考えればいい。わたしはこれまでご飯やパン、パスタなど炭水化物を中心に献立を考えてきたので、糖尿病対策として出されている糖質制限メニューなども見たり、ご飯をオートミール粥に置き換えてみたりしながら試行錯誤を繰り返した。

 

カレーの香辛料、とくにウコンが免疫を上げるというので夫はカレーを食べたがった。カレールーに含まれる糖質や小麦のこと、またカレーに添える少なからぬライスのことを考えると不安もあった。不安になると料理が作れなくなる。そこで責任を丸投げすべく外でカレー屋を転々としていた。そんなある日、ネパールカレーの店を見つけた。

 

この店では小麦のナンのほかに大麦のロティを出していた。ロティはナンほどふわふわしておらず、そのせいか食べても不思議と苦しくないと夫は喜んだ。またネパールカレーはビーガン向けの野菜カレーも充実している。オメガ6を減らし、オメガ3を含む魚肉や鹿肉を中心に肉も減らしていこうとしていたのでこれもうれしかった。

 

店にはロティで作ったカティカバブというチキンロールもあった。そこで昼にカティカバブ、夜はビーガンカレーとロティを食べるという贅沢な日々が続いた。何にお金がかかったかってこの外食三昧にいちばんお金がかかったと思う。

 

その甲斐あってか、夫は食事が楽になっていった。食べている間だけでなく、食べ終えた後が違う。うどんやちゃんぽんなど小麦を取った後はガスが発生するらしくお腹が張り、げっぷが止まらなったり下腹部が痛くなったりしていた。モロヘイヤ玄米パスタやロティではそれがない。

 

わたしはご飯とみそ汁におかずという定食系が好きで、正直連日連夜のネパールカレーはきつかった。財布の中身も気になった。不安で渋い顔をしていたと思うし、わたしだけ家で別のものを食べることもあった。

 

そんなわけでもう心配ない、まさかの誤診だったかとさえいわれはじめた去年の暮れから、徐々にカレー屋へいく機会は減った。モロヘイヤ玄米パスタもめっきり食卓に上がらなくなった。夫は糖質制限をやめる宣言を出し、パンに麺、コンビニスイーツやカフェデザートを食べはじめた。そしてがんが進行しているという診断を受けた。

 

わたしたちはネパールカレー屋へ戻ることにした。家ではモロヘイヤ玄米パスタとオートミールを食べている。鹿児島やくにく屋に鹿肉を注文し、ツナ系のカツオの缶詰を料理している。

 

これでどれほどの変化があるかはわからない。わかっているのはそうした食生活をしていた10ヵ月は何の薬も投与せず、がんの進行は検査にあらわれなかったということだ。*1

 

幸いもちおはネパールカレーが好きで、連日連夜ネパールカレーで何の不満もない。またネパール人のおいちゃんたちは太客が店に戻ってきたことを喜んでいると思う。がんばれネパール。現場からは以上です。

 


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GWとメメントモリ

がんの進行に対処するため胃切除手術か化学療法の再開か、何らかの治療が必要だと内科のR医師は診断した。外科のT医師は現在の病状なら胃切除手術は可能だと診断した。しかしT医師はR医師と違って「緊急に何としてでも」という調子ではなかった。

 

「これはあくまで僕の考えなんですけど、」と夫はいった。「前回胃カメラ検査を受けたあとから、生活を以前の状態に戻していたんです。だからまずそれを改めてどうなるか変化を見たい。もちろんそれで病気が進行するのは怖いし、R先生はそれを心配しておられるのだと思います。でも僕としてはこの変化が生活と関係していると考えずにはいられないんですよ」

 

「R先生は抗がん剤以外は何をやっても効果がないと考えていらっしゃるので、わたしたちが何をやっているかお聞きになることもありません。でもわたしたちはこの10ヵ月抗がん剤なしで体調が安定していたのは偶然ではないと考えています」とわたしはいった。

 

T医師は「R先生のおっしゃる通りで、」と引き継いだけれど、続きは予想外だった。「何をやっても上手くいくときは上手くいくし、その逆もあります」

 

治癒するとは思えない状態で完治する場合もあれば、その逆もある。胃切除が最善かどうかは結果論でしかない。化学療法についても同様で、どの薬をどの程度の期間使用するのが最適かはやってみないとわからない。

 

夫は常々「医者が何を知っていようと俺の身体を知っているわけじゃない。俺は自分の身体を確かめながらどうするかを決めたい」といっていた。夫はそのままのことを医師に伝えることはなかったけれど、こうした姿勢はときに、というか、しばしば、むしろいつも、「命を粗末にするのか」という反応を医師から引き出す結果になった。しかしT医師の話し方は威圧感がなく、いくつかの選択肢とそれぞれの可能性についての話はむしろ緊迫感を和らげるものだった。

 

夫の希望は1か月後に胃カメラで再検査を受けることだった。手術と化学療法を視野にいれつつ、まずは生活を闘病モードに戻して変化があるかどうか確かめたい。

 

内科のR医師は「何も手を打たずに治ることはない」とはっきり言った。一方T医師は「少なくとも僕が見た限りでは今日、明日にどうこうというものではないですね」といった。「連休中は病気のことは忘れて楽しんでください」

 

こうしてもちおの希望通り次の検査は一ヵ月後になった。がんを忘れることができるかといえばもちろん違う。でもそれが生活を圧迫するほどにはならずに済んだ。がんは慢性病なのだ。忘れてしまうよりいつも覚えて様子を見ておいた方がいい。わたしたちは今回そのことを痛感した。

 


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