スキルス胃がんだったとは!

夫がスキルス胃がんステージ4の告知を受けてからのこと

四日目のシスプラチンとYAZAWAの手術

仕事の時間を一日に二度も間違えた。幸いあるはずだと思った仕事がなかったという待ちぼうけで済んだが、この二年、逆の間違いも何度かやったので怖い。病院へ向かう道も間違え、ようやく病室にたどり着くともちおはベッドにいなかった。

 

もちおは入浴を済ませ、ひとりで院内の喫茶室で漫画を読み、コンビニで入り用なものを買っていた。ひとりでこれだけ動き回るとは昨日より調子がいい。食事もまずまず入る。問題は入院してからかれこれ一週間通じがないことだ。緩下剤も効かない。退院したらすぐにエネマをすればいい。

 

よかったね、というと不服げに不調を訴える。もちおは調子がよくても妻の顔を見るといつも「ぼくはもうだめだ」という顔をする。そういえば風邪をひくといつもこうだったと気が付いてから、不調の訴えをあまり深刻に受け止めないようにした。

 

一年中窓を閉め切った病室は呼気が籠って気がふさぐので、休憩所へ誘う。同室に大声で話す耳が遠い老人がおり、看護士を相手にがんで他界した著名人を次々に上げるので参ったという。そりゃあ参るわ。

 

休憩所の入り口でYAZAWAを見かける。次に見かけたら声を掛けようと思っていたが、何やら医師と話し込んでいる。両肘を車椅子のひじ掛けにおいて、YAZAWA バスタオルの上で軽く組んだ手をだらりと垂らす様がその筋の重鎮ぽい。さすがYAZAWA。邪魔しないように「こんにちは」と挨拶だけした。

 

カップを忘れて病室に取りにいき、戻ってくると休憩所の入り口にひとりポツンとたたずむYAZAWAがいた。お、という顔でこちらを見ている。

「またお会いしましたね。いつまでいらっしゃるんですか」

「まだわからないんですよ。明日手術でね」

明日か!それでさっき医師と話していたのか。

「でもそれは予定していた手術とは別のもので、終わったら次はガンの手術。今年は2月からずっと病院巡りです」

 先ほど医師と話していたのはそのことだったのだろうか。YAZAWAはもう飽き飽きだという口ぶりだったが、落ち着かない様子だった。

「それはご退屈でしょうね」

「ええ、本当にそうですよ」

「病院の中に劇場でもあればいいのにねえ」

「そうですねえ」

ここに YAZAWA が歌いに来てくれたらいいのにね。音楽を聴いたり、歌を歌って飲んだり騒いだりできたらいいのにね。闘病記と医学書と詩の本が少しだけある図書館だけでなく、シアタールームや漫画喫茶やジムやカラオケボックスを併設すれば長期入院の患者に喜ばれるだろう。免疫も向上するかもしれない。

 

患者は寝ていることしかできない人ばかりではない。動けるけれど待つしかない人、ベッドから離れられないけれど頭はしっかりしており、刺激に飢えている人、いろいろだ。ベッドにいれば医師や看護師が来る。いつカーテンが開くかわからないので完全にだらけていることはできず、医師や看護師は忙しいので話し相手にはならない。娯楽が切実に必要なのは病院かもしれない。

 

でもパソコンがあれば映画が観られますねというと、

「私はそういうのは全くダメで。電話もほら、これなんです」

YAZWA は車椅子の手押しに下げた小さなバッグに入ったガラケーを指さした。

「これを機にお持ちになってはどうですか。よかったらご相談ください」

と笑いかけると、YAZAWA

「ええ、そのときはお願いします」と笑った。

 

もちおの席に戻る。机に突っ伏してぐったりしている。

YAZAWA、明日手術だって」

「そうかね。そら大変やな」

手術後は数日集中治療室に入るのがこの病院の決まりなので、しばらく会えない。その間にもちおは退院する。もう会うこともないかもしれない。

 

この日は夜に仕事があって、面会時間途中で切り上げた。なんだか家に帰る気分になれず、深夜まで仕事場にいて、結局泊まった。

「帰りたい」

「はてこがいなくて寂しい」

というもちおからのLINEが4時過ぎに入った。わたしが仕事場でとぐろを巻いていた頃、もちおも眠れず深夜の院内をさ迷い歩いた。深夜のがらんとした休憩所にはYAZAWAがいたそうだ。

「お茶を淹れよったよ。『あちっ!』とかいうて。あの人も眠れんのじゃろうな」

 「何か話した?」

「話さんよ。話したら変に思うじゃろうが」

テレビも深夜はやっていない。オンデマンドでさんまのお笑い番組でも見られたらいいのにな。やはり病院に娯楽は必要だ。消灯時間を過ぎて眠れない人たちは何をして過ごしているのだろう。

三日目のシスプラチンと YAZAWA

微熱があるらしく、ぐったりしている。全身浮腫んで体重が5キロも増えた。腎臓の負担を減らすためにぶっ続けで水を点滴し続けているが、排尿が上手くいかない。通じもない。利尿剤に加えて緩下剤が出ることになった。

 

頬もお尻もふっくらしており、熱があるので血色もよく、見た目は健康的で昔に戻ったようだ。しかし今日はパソコンもタッチパッドもバッグの中で、スマホを触る時間も少ない。

 

少し難しいかと思ったが、気晴らしに階下の喫茶室で漫画を読もうと誘ったところ、「運動になるかもしれない」と起きてきた。点滴をカラカラ引きずりながら病室を出る。売店をのぞき、喫茶で珈琲を飲み、サンドイッチを食べて部屋に戻った。午前中に悲痛なLINEが来たので心配したが、これだけのことをする体力があるとわかって少し安心した。

 

とはいえやはり調子が悪い。部屋に戻ると倒れこむようにベッドに横になった。もちおの調子が出ないときはわたしも仕事をする気になれない。浮腫んだ手足をオイルでひたすら揉んだ。もちおはとろとろと眠りはじめ、落ち着いた寝息をたてていた。

 

ここ二日、廊下ですれ違う車椅子の男性がいた。50代半ばくらいだろうか、クールに決めたピコ太郎のような顔立ちに派手なドテラと派手な膝掛けをしていて、目を引く。視線に気づくとごく自然な調子で「こんにちは」とわたしに挨拶をした。

 

「素敵な膝掛けですね」「あ、これですか」

男性が膝掛けにしていたのは大判のバスタオルで、「YAZAWA」の文字が入っている。

「あ、YAZAWAだったんだ。どこかで見たと思ったら」

男性は決まり悪さと誇らしさの入り混じった笑顔を浮かべた。永ちゃんファンか。父と気が合いそうだ。

 

その日のうちに二回すれ違い、昨日休憩所にお茶を汲みにいって、また会った。ドテラは柄違いなこともあったが、YAZAWAのタオルが目を引く。

「こんばんは」

「こんばんは。またお会いしましたね」

「あ、そのお湯は熱いですよ、気を付けて!」

社交的で面倒見がいい。いかにも女慣れしている。だいぶ泣かしてきたに違いない。車椅子利用ということは病状は重いのかもしれないが、廊下で仕事の打ち合わせらしき電話をかけていたりして、覇気がある。

 

YAZAWA は暇を持て余しているようで、話ができそうな相手が見つかり、いかにも興味をもっている様子だった。わたしは知らない人が大好きなので、すぐにもYAZAWAの病室へ遊びにいくなり休憩所で談笑するなりしたくなったが、もちおが待っているので完全無欠珈琲を作って3回ともすぐに戻った。

 

今日は YAZAWA と一度もすれ違わなかった。

「今日は YAZAWA に会わないな」ともちおにいうと、もちおはつまらなそうな不審顔をした。もちおは妻以外の人にはおよそ興味がない。なので妻が片端から知らない人と知り合いたがることに毎度閉口している。もちおは妻と一緒に漫画を読み、妻と一緒に食事をして、妻と黙って向き合いながら、あるいは隣の部屋で、互いに好きなことをしているのが一番好きだ。

 

男性の病室と女性の病室は患者同士の交流に大きな違いがあるという。

女性患者は互いに知り合い、家族同士で交流が生まれることもある。確かにこれまで友人、知人の見舞いにいくとそんな感じだった。親戚の女性は長年何度も入退院を繰り返していたが、最後には病室の主のような存在になり、入院がはじまると顔見知りが集まってきてあれこれ悩み事を話すまでになった。

 

一方、男性患者はどこもカーテンを閉め切って、互いに話しをすることもない。喫煙所があるところでは少し事情が違うかもしれないが、いまは喫煙所に患者が集まることも減っているだろう。人好き、話好きの男性は気の毒だ。

 

最初に入院したとき隣のベッドにいたおじさんは、看護士が夜勤で入れ替わる度に名前を復唱し、どうぞよろしくと挨拶をしていた。検査に来るとちょっとした話題をふっては会話しようと試みる。見舞客が来ればうれしそうにする。しかしどういうわけか、誰もこのおじさんと会話をしようとしなかった。返事はする。しかしおじさんの気持ちを汲むような人間らしい会話を耳にすることはなかった。どうしたわけか見舞客までおじさんには一方的にしゃべり続け、言うだけ言うと帰っていく。

 

わたしは見兼ねておじさんに卓上ゴミ箱を差し入れた。おじさんは喜んで、お礼に差し入れでもらったケーキをくれた。もちおはまもなく退院したので、おじさんとの交流はそこで終わった。最後に話したとき、おじさんは転移が見られるので手術ができないという宣告を受け、化学療法に入るところだった。病室にいた別の患者さんは同じ日に摘出手術が出来ると言われたそうだ。

 

「あの人は手術ができるっち言われよったとにから、悔しい」とおじさんはいった。「あの人が手術できなくても、僕たちがよくなるわけじゃないですよ」ともちおは答えた。こういう会話は患者同士でなければできないと思う。

 

囚人服のような病衣の下に千差万別な人生がある。もちおが廊下で見舞客と知り合って喜ぶとはまず考えられない。一方、YAZAWA のおじさんやケーキのおじさんは留守宅を守る寂しい犬のような眼をしている。男性患者の中にもさびしい人はいるのだ。

 

今度 YAZAWA とすれ違ったら、もう少し話をしてみようと思う。車椅子と病衣が登場する前のおじさんの人生はきっと面白いだろう。夢中になって、もちおがうんざりしない程度に切り上げなくては。

二日目のシスプラチン

「気分が悪くて昼ご飯も入らず、動けない」というLINEが午後に入る。「シスプラチンの副作用は翌日の方がひどいのかも」。

 

わたしは午後からの仕事を大急ぎで済ませようと仕事場へ向かった。仕事部屋に風を通し、お茶を淹れようと湯を沸かしながら、ふと嫌な予感がしてスケジュール帳を見た。今日じゃなかった。なんだもう、なんだもう、ほんとにもう。

 

昨夜は朝まで眠れず、まどろんでシャワーを浴び、慌てて出てきた。朝から何も食べていないし、何を食べたらいいのか頭が働かない。今日が何曜日でいま何時なのか、何度時計とカレンダーを見ても頭に残らない。

 

こういうことが何度かあって、先月取引先との契約をいったん終了させてもらった。何だかんだで辞めるのも大変だったが、年相応に気遣いもして最後の最後は円満に去ることができた。あのとき辞めておいてよかった。自分だけの仕事なら間違えても被害は小さくて済む。

 

「仕事の予定間違えてた。動けない」とLINEを送ると「俺も動けない」という返事が来た。いかねばならない。通いなれた道を間違え、車線変更に手間取り、着いたのは16時過ぎだった。

 

もちおは畳んだ掛け布団を枕に横になって看護士と何か話していた。顔色は悪くない。

「シャワー浴びたら少しすっきりした」

「動けるなら階下へいかない?わたし何も食べてない」

「いけるよ。いこう」

 

手を繋ぐともちおの手はブラウン管テレビのようにビリビリしている。オキサリプラチンを打っていた時も薬を打ってしばらくは手がビリビリしていた。古いノートパソコンのバッテリーを握っているような弱いビリビリ感。

 

シスプラチンは腎臓への負担が大きいので、数時間で一気に入れたあと、大量の水をひたすら点滴し続ける。しかし水を飲んでも薬の副作用で弱った泌尿器は上手く働かないらしく、利尿剤なしには排尿しきれないみたいだ。

 

今週は退院前にCTを撮るので造影剤も入れる。造影剤はこれまた腎臓への負担が大きい。Wパンチなので撮影後しばらく様子を見ると医師から話があったという。なぜ化学療法がはじまる前にCTだけでも撮影しておいてくれないんだ。生きた人間を相手にしているのに身体の調子を確かめず、空いたところに予定を入れられて病状が悪化したら堪らない。

 

抗がん剤がシスプラチンことエルプラットからオキサリプラチンに変わったのは、前回の点滴直後に肌が赤く腫れ上がるというアレルギー反応が出たからだ。「これが喉の奥に出ると呼吸困難になる。アレルギーが出るともうこの薬は使えない」と医師はいった。

 

「あんな風にアレルギーが出たのは、ポート手術直後の弱っているときに間髪空けずに投薬をはじめたからではないのか」とわたしももちおも疑っている。大した手術ではないと聞いていたポート手術はインターンの実験台に当たったらしく、もちおは緊張のあまり握りしめていた太腿が紫色になっていた。「こんなに怖い思いはしたことがない」と後から何度も何度も話していた。

 

一方わたしの膀胱炎は徐々におさまりつつある。医学の恩恵が受けられるのはやはりありがたい。去年の暮れに、アメリカに住む兄が急遽帰ってきた。何気なく買ったスーパーのナッツを食べた直後にアナフィラキシーショックが出たのだという。

 

兄は自分で呼んだタクシーが到着する前に路上で意識を失った。幸いそばに人がいて、病院で適切な処置を受けることができたが、「助かってよかった」と思うより、支払いの額に身震いしたという。「エピペンを買わなきゃならないんだけど、日本に帰って自費で買った方が安い」と兄はいう。

 

病院の食堂でわたしが食事をしているあいだ、もちおはドリンクバーのカフェラテがまずいとしょぼくれていた。飲みたいものがあり、がっかりする気持ちの弾力があるならまだ調子のいい方だ。わたしはひそかに安心した。はたして18時の夕飯は残さず食べて、食後には送っていただいたギー入りの完全無欠珈琲を「こっちの方が美味い」とひとりごちながら飲んでいた。

 

「元気なった?」

「うん」

「奥さんきたから?」

「うん。奥さん来てくれたから。もちおはしあわせもの」

 

しょぼくれるとき、甘やかしてもらって満足したとき、もちおは子供ような顔をする。わたしはもちおがあくびをするところを見るのがすきだ。あくびをするもちおは乳児に似ている。乳児はおっさんぽいから不思議はないのかもしれない。柳家小三治は小僧に似ている。もちおが小さな小僧のような爺ちゃんになるまで、そばにいられたらいいなと思う。

 

新しい薬 初日

夕方からと言われていた化学療法の点滴が昼前にはじまったというLINEが入る。

化学療法がはじまると味覚も変わるし吐き気も出るので、「食事のあとにしてくれたらいいのに」と思う。些細なことだけれど、もやもやとした不信感が募る。

 

一昨日からわたしは膀胱炎になってしまった。用を足すと文字通り飛び上がるほど痛い。「尿道に焼け火箸を突っ込まれるような痛みがある」と「家庭の医学書」に書いてあったが、実に上手い表現だと思う。中学生の頃、離婚して母が出て行ったあとに自分の排尿痛は膀胱炎ではないかと調べて読んだのだった。

 

「家庭の医学書」にはとにかく水を飲め、日に2リットルほど飲むことだと書いてあったのでひたすら水を飲んでいたらほどなくして治った。しかし今回はすみやかに病院へいって薬をもらうことにしたので、面会は夕方に近い時間になった。

 

眠っている間に点滴は終わったそうで、幸い目が覚めてからとった遅い昼食は問題なく食べられたそうだ。もちおはベッドの足下に畳んだ掛け布団を枕にして、本を読んだり、ネットを見たり、日がな一日ダラダラとくつろいでいた。点滴後にしては調子がよさそうだ。

 

「悪くない。打った直後に食事が出来るなんて。そんなにきつくないし」と不安と期待が入り混じった様子でいう。今回からシスプラチンを使うのだけれど、これまで使っていたオキサリプラチンより副作用が重いと聞いていたので、我々は戦々恐々としており、まだ油断できない気分。

 

夕食後、TS-1の服薬がはじまる。もちおいわくTS-1を服薬することは「自分で自分の身体を刃物で切り付けるようなもの」だそうだ。飲めば不快感と気分の悪さが襲ってくることがわかっているものを自分から飲むのだから、いやでいやでたまらない。見ていて気の毒だ。

 

しかしそれもすんなり飲んで、食後はまた機嫌よくスマホを眺めていた。ヒトデさんがビットキャッシュで失敗した記事が気になるらしく、ひとしきり持論をぶつ。好きな話題のエントリーが上がってうれしそう。

 

わたしはベッド脇のテーブルに持ち込んだPCを広げ、仕事を片づけながら完全無欠珈琲を入れたり、要りようなものをとってやったりして過ごした。仕事が片付いたあとは肩と背中を揉んでやり、寝そべるもちおの脚を膝にのせて足の裏から太腿も揉んでやった。

 

恐怖に慄いて迎えた日だったけれど、いたって平穏な一日だった。

これを書いている最中に「手足が浮腫んでパンパンだ」というLINEが来た。不測の事態に備えるための入院だ。専門家が適切な処置をしてくれるよう、無事を祈るしかない。

 

暗い玄関に灯りをつけて「ただいま」と声をかけた。

 

『ただいま。もっちゃん?はてこ帰ったよ』

去年もちおが最初の投薬で入院したとき、ひとりで帰り着いた家の玄関で、そういいながら靴を脱いだことがあった。

『もっちゃん、また元気になって、よかったね』

ひとりきりの玄関で家の奥に向かって声をかけた。声が掠れて喉が詰まる。

 

あのときは深刻だった。「また元気になる」ことが現実に来ると信じることができなかった。時間は失われていくばかりに思えて、もちおから一瞬も離れてはいけないと思っていた。まだ慌てるような時間じゃないと知っていたら違ったのに。教えられるなら教えてあげたい。

 

でも未来の自分からここまでは慌てなくていいと知らされたら、それはそれで怖いよね。「ここまでは」なんていわれたら、「そこから先はどうなのよ?!」って思っちゃうよね、きっと。

蟹とわたしたち

「俺、しあわせなんだよね」ともちおがあるときしみじみ言った。

暗い顔でイライラすることが増えていたのでちょっと驚いた。

 

「ほんと、しあわせ。

 はてこさんとこうしてずっと一緒にいられるし

 いやな仕事はしなくていいし」

 

 

ときどき、二人でいることがあんまり幸せで、

「こんなに幸せなんだから、怖いことなんて起きないんじゃないか」

と思うことがある。

 

すると、

「たくさんの幸せな人たちのあいだにも怖いことは起きたでしょ」

とすぐに心の中で反論が来る。

 

それから、

「もちおはこんなに頭よくていろんなことに興味がある、

だからまだまだ長生きするんじゃないか」

と思うこともある。

 

すると、

任天堂の岩田社長やスティーブ・ジョブズだって頭いいのに死んじゃったじゃん」

とすかさず自分の内から反論が来る。

 

 

 

先日黒柳徹子が Instaglam に子供の頃に父と撮った写真を上げて

「父はこのあと徴兵にとられたので」

と書いていた。

 

これまで徴兵というものをそこまで生々しく思い描いたことがなかったのだけれど、

徴兵とはつまり五体満足で元気な、働き盛りの家族が

ある日突然、強制的に死地に赴かねばならなくなるということなのだと

この年齢になってふいに怖さが胸に迫った。

 

もちおがまた化学療法をはじめる。今度は使ったことのない薬だ。

徴兵に家族をとられた人はどんな気持ちだっただろうと病院の駐車場で思った。

 

 

こんなに恵まれていてしあわせなのに

みるみる日常の仕事に手がつかなくなるので

日常はそのままなのに、まだ何も起きていないのに

何を甘ったれているのかと思うのだけれど

なんだかもうボロボロ泣けてくるし、血尿は出るし

(ストレスで血尿が出るのって本当にどうなっているんだろう?)

わたしたちはへなちょこだ。

 

仕方ないよねえ。人間だからねえ。無理すると、病気になるもんねえ。

とても贅沢でしあわせで、でも怖くて心配なこともあって、気持ちの置き場に困る暮らしをしています。

入院予定日の立て方についての疑問

10月半ばすぎの入院予定日、大荷物を担いで赴いた病院へ到着してから「ベッドの空きがないので入院は延期してほしい」と言われる。

 

「今回から薬が変わる、劇薬だ」と聞いたせいで連日の緊張して過ごし、入院が近づくいて、わたしももちおも眠れぬ夜が増えた。わたしは仕事を減らせるだけ減らした。残りの仕事だけコピーロボットの鼻を押すように別人に成り代わって出かける。本当にもうどうしようもない。いよいよだ。夜が明けたらもちおは入院なのだ。

 

そんな風に迎えた運命の日が肩透かしで終わり、わたしたちは拍子抜けした。もっと早くわかっていたら無駄に消耗しなくて済んだのに。

 

3週間スパンというサイクルを維持しなくていいのか若干不安に思いつつ、思いがけない休薬期間を過ごした。本当に、前々からわかっていたらいろいろ予定も立てたのに。今後もいつベッドが空くのかわからないから他の予定も入れられない。

 

しかし待てど暮らせど病院から連絡がない。こんなことは初めてだ。

 

11月も半ばに入ってとうとうもちおが病棟担当者へ打診の電話をかけた。

「いや、ちょっと待ってください。3週間サイクルの薬を打つのに2か月待ちなんですか?!」

珍しくもちおが電話口で声を荒げた。こんなやり取りがあったそうだ。

 

「10月後半に入院予定だったのですが、ベッドが空いていないと延期になりました。その後ご連絡がないので予定をうかがいたい」

「緊急度の高い患者様から順にお入りいただいております」

「どのくらいかかりそうなのかわかりませんか」

「2か月ほどお待ちいただいた方もいらっしゃるので」

 

「大変なのはあなただけじゃない、みんな我慢しているんです」とわがままな客を諭すような調子だったが、厳密に命のやり取りをしている場でこれはないんじゃないかと思う。夕方の大戸屋じゃないんだから。

 

先週末、ようやく主治医から電話が来た。

「来週中にベッドが空きます」

いつだよ。

 

「たぶん金曜日じゃないかな。いつも金曜日だから」

ともちおはいった。そうだっただろうか。これまで意識したことがなかった。しかし金曜日に入院しても土日の病院は稼働していないのだ。果たして22日の水曜日、夜になって病棟担当者から電話があった。

「ベッドが空きました。急なのですが金曜日においでください」

ほらね、ともちおは言った。

 

この間ずっと、わたしは仕事の予定や個人的なつきあいがある人たちと約束をするときに「近々外せない予定が入ることになっている。それがいつかわからない。なるべく早く伝えるつもりだけれど、直前になって予定変更になることもある」と話していた。とても困った。しかし勤め人だったらもっともっと、相当困ると思う。

 

ともかくいよいよ入院が決まり、我々はまた緊張と眠れぬ夜続きの日々を過ごした。 前日が特に酷いので入院日はふらふらしている。

そして今日入院セットをもってわっせわっせと病棟へ入った。

 

そこで知らされたことには、「入院手続きを土日にしていないので呼んだが、点滴は月曜日からである。今日は血液検査とレントゲン、心電図を取るが、土日はやることがない」ということであった。

 

だったら月曜の朝に入院手続きすればいいんじゃないのか。

 

日曜の夜からTS-1の服薬をしてもらうという話だったが、TS-1は自宅で飲めるのである。3日間の入院代金がいくらかかると思っているのか。

 

我が家の場合は加入しているがん保険から入院保険がおりる。土日働いているわけでもないから収入は減らない。しかし土日仕事をしながら、民間の保険に入らず治療している人もいる。何より自己負担は3割とはいえ健康保険でその7割が税金から支払われているのだ。

 

「帰ろう。ここにいてもやることがないなら」

「そうだな。外泊許可をもらえるか話してみるよ」

 

自宅で休めない理由があるなら入院に意味はあるだろう。しかしパジャマ代金を支払い、他人のいびきに悩まされ、夜中一時間ごとにペンライトで安否を確認され、まんじりともせず朝を迎え、病院食を食べる週末を病院で過ごすどんな意味があるというのか。

 

出がけに新入りの看護師が入院中つける腕輪をはめさせてくれとやってきた。

 

「いまから家に帰るのに?」

「ええ…でも…」

「戻ってからでよくないですか」

「…」

 

看護師は困った顔で黙って腕輪をとめようとしたが、「だってこれ、外に出たら切りますよ?意味ありますか?」というといよいよ困った顔をして「あ…切るんですか…」と小声でいってやめた。

 

そんなわけでいまもちおは入院代を支払いながら自宅の書斎にいる。入院先は全国から患者が訪れる歴史ある高名な大学病院である。だからこそこれまで最新の医療の恩恵にあずかることができたのだ。どうなっているんだろう。まさか実験参加対象から外れたとたんに通常の待遇が浮き彫りになったのだろうか。頭が痛い。

温泉へいこうよ

 

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再発したならがん対策に効果はなかったのかというと、そうも言い切れない。いつの間にかやめてしまったことがひとつ増え、ふたつ増えていくうちにいまのようになってしまったからだ。

 

もちろん何をしても結果は変わらなかったと思う人もいるだろう。とはいえ何がどう変わったのか興味がある人もいると思うので、去年の今ごろと最近の暮らしの違いを書いてみる。

 

めっきり温泉へいかなくなった。実家のそばの北九州は香春に柿下温泉というラジウム温泉がある。鄙びた、というより、いまやすっかり寂れた温泉だけれど、ここは知る人ぞ知る名湯で、がんに効くと有名だ。

 

福岡にも糸島にはきららの湯というラジウム温泉がある。もう少し先までいくと古くからあるまむしの湯というアルカリ温泉もある。こちらは三毛猫が自由に出入りする暖かい雰囲気の心安らぐ施設で、とても湯がいい。

 

去年はこうした温泉に週に3~4日は通っていた。スタンプがたまると割引になったり、サービスデーがあったりはするが、入湯料は二人で1200円くらい。月に15000円前後だ。安くはないが、湯治にいくことを考えれば時間も費用も比較にならない。

 

妹の知り合いはスキルス胃ガンで手術も出来ず、長崎のラジウム温泉へ湯治にいって治ったという。真相も詳細もわからないが、妹は「もっちゃん、温泉へいきなよ」とまとまった見舞金を送ってくれた。もちおも鳥取の三朝温泉へ三泊したあと見違えるように調子がよくなった。三朝温泉は湯治客が多く、三朝温泉郷のがん罹患率は飛び抜けて低い。

 

温泉に対するわたしたちの期待は高まった。もちおが渋るときは「妹のお見舞いがあるから」とお尻を叩いて出掛けた。夏も冬も温泉の帰りはいつも身体がほかほかで、温かくしているつもりでも身体は冷えているものだと思った。温泉の温まり方は家の風呂とも、いわゆるスーパー銭湯とも違う。

 

もちおが抗がん剤をやめて10ヶ月のあいだがんが大人しかったことはあきらかに生活習慣と関係がある。がんは慢性病で、慢性病対策とはひとえに生活習慣対策のことだ。しかし生活習慣を変えるのはなかなか難しい。大人になってもよほどの覚悟がなければ人は易きに流れやすい。

 

もちおはなぜか年明けから温泉通いをやめた。

年末年始にわたしの親族が集まってわーわーしていたので、いつものペースで温泉へいかない日が幾日かあった。珍しく顔を出した子供たちを連れて、わたしはもちおを残して泊まりがけで出かけることになり、その間にもちおはインフルエンザにかかって高熱を出した。

 

熱が下がってからの体調はすこぶるよかった。検査結果も素晴らしかった。もちおは会社に顔を出し、少しずつ仕事を再開しながら蟹の贈り物である趣味にもますますのめり込んでいった。そして温泉通いは欠かすことの出来ない日課から、余暇を利用した息抜きになっていった。

 

やがて春がきて、再発の診断を受けた。

 

温泉へいこうよ、といまもわたしはもちおに呼びかける。うん、そうだね。でも今日は疲れているから、また明日ね。今日はパソコンが売れたから送らないといけないんだ。夕方から九十九電気へいくから今日はダメ。もう遅いから閉まっているよ。

 

温泉へいこうよ。

 

でも、温泉へいく時間にもちおがしたかった何かが、いつかもちおの悔いになったらどうしよう。

 

そう思うと引きずっていくことは出来ない。

妹のお見舞いはまだ引き出しに残っている。

「温泉へいけばよかったね」

という日が来なければいいなと思う。

「あんなに言ったのに、どうして」

と、言わなくてすむといいなと思う。