四日目のシスプラチンとYAZAWAの手術
仕事の時間を一日に二度も間違えた。幸いあるはずだと思った仕事がなかったという待ちぼうけで済んだが、この二年、逆の間違いも何度かやったので怖い。病院へ向かう道も間違え、ようやく病室にたどり着くともちおはベッドにいなかった。
もちおは入浴を済ませ、ひとりで院内の喫茶室で漫画を読み、コンビニで入り用なものを買っていた。ひとりでこれだけ動き回るとは昨日より調子がいい。食事もまずまず入る。問題は入院してからかれこれ一週間通じがないことだ。緩下剤も効かない。退院したらすぐにエネマをすればいい。
よかったね、というと不服げに不調を訴える。もちおは調子がよくても妻の顔を見るといつも「ぼくはもうだめだ」という顔をする。そういえば風邪をひくといつもこうだったと気が付いてから、不調の訴えをあまり深刻に受け止めないようにした。
一年中窓を閉め切った病室は呼気が籠って気がふさぐので、休憩所へ誘う。同室に大声で話す耳が遠い老人がおり、看護士を相手にがんで他界した著名人を次々に上げるので参ったという。そりゃあ参るわ。
休憩所の入り口でYAZAWAを見かける。次に見かけたら声を掛けようと思っていたが、何やら医師と話し込んでいる。両肘を車椅子のひじ掛けにおいて、YAZAWA バスタオルの上で軽く組んだ手をだらりと垂らす様がその筋の重鎮ぽい。さすがYAZAWA。邪魔しないように「こんにちは」と挨拶だけした。
カップを忘れて病室に取りにいき、戻ってくると休憩所の入り口にひとりポツンとたたずむYAZAWAがいた。お、という顔でこちらを見ている。
「またお会いしましたね。いつまでいらっしゃるんですか」
「まだわからないんですよ。明日手術でね」
明日か!それでさっき医師と話していたのか。
「でもそれは予定していた手術とは別のもので、終わったら次はガンの手術。今年は2月からずっと病院巡りです」
先ほど医師と話していたのはそのことだったのだろうか。YAZAWAはもう飽き飽きだという口ぶりだったが、落ち着かない様子だった。
「それはご退屈でしょうね」
「ええ、本当にそうですよ」
「病院の中に劇場でもあればいいのにねえ」
「そうですねえ」
ここに YAZAWA が歌いに来てくれたらいいのにね。音楽を聴いたり、歌を歌って飲んだり騒いだりできたらいいのにね。闘病記と医学書と詩の本が少しだけある図書館だけでなく、シアタールームや漫画喫茶やジムやカラオケボックスを併設すれば長期入院の患者に喜ばれるだろう。免疫も向上するかもしれない。
患者は寝ていることしかできない人ばかりではない。動けるけれど待つしかない人、ベッドから離れられないけれど頭はしっかりしており、刺激に飢えている人、いろいろだ。ベッドにいれば医師や看護師が来る。いつカーテンが開くかわからないので完全にだらけていることはできず、医師や看護師は忙しいので話し相手にはならない。娯楽が切実に必要なのは病院かもしれない。
でもパソコンがあれば映画が観られますねというと、
「私はそういうのは全くダメで。電話もほら、これなんです」
YAZWA は車椅子の手押しに下げた小さなバッグに入ったガラケーを指さした。
「これを機にお持ちになってはどうですか。よかったらご相談ください」
と笑いかけると、YAZAWAも
「ええ、そのときはお願いします」と笑った。
もちおの席に戻る。机に突っ伏してぐったりしている。
「YAZAWA、明日手術だって」
「そうかね。そら大変やな」
手術後は数日集中治療室に入るのがこの病院の決まりなので、しばらく会えない。その間にもちおは退院する。もう会うこともないかもしれない。
この日は夜に仕事があって、面会時間途中で切り上げた。なんだか家に帰る気分になれず、深夜まで仕事場にいて、結局泊まった。
「帰りたい」
「はてこがいなくて寂しい」
というもちおからのLINEが4時過ぎに入った。わたしが仕事場でとぐろを巻いていた頃、もちおも眠れず深夜の院内をさ迷い歩いた。深夜のがらんとした休憩所にはYAZAWAがいたそうだ。
「お茶を淹れよったよ。『あちっ!』とかいうて。あの人も眠れんのじゃろうな」
「何か話した?」
「話さんよ。話したら変に思うじゃろうが」
テレビも深夜はやっていない。オンデマンドでさんまのお笑い番組でも見られたらいいのにな。やはり病院に娯楽は必要だ。消灯時間を過ぎて眠れない人たちは何をして過ごしているのだろう。