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スキルス胃がんだったとは!

夫がスキルス胃がんステージ4の告知を受けてからのこと

大晦日の失敗

告知前

「ガンだって。これから紹介されたB病院へいくから、はてこさん来てくれる?」

もちおは一週間前に知人のA医師のもとで胃カメラを飲み、組織検査を受けていた。

 

もちおにがんの告知をしたA医師はわたしの父の友人で、もちおが前回A医師にあったのは年末、身内の集まりの席だった。

 

大晦日の昼下がり。もちおは次々に出される料理と酒を前に浮かない顔で座っていた。いつも舅の前では明るく元気なところを見せなければと気負っているのに、酒の席で空元気すら出ない。体の不調もさることながらもちおはそのことに苛立っているようで、「無理に食べることない」という妻に「お義父さんの前でそんなこというな」とキレ気味な返事をしていた。A医師は席が近く、このひそひそ喧嘩を聞いていた。

 

「どうしたと?」

「もちおさん、最近ずっと胃の調子が悪いんです」

「いわないでよ!」

「Aさんのところで胃カメラ飲んだらってもうずっといってるんですけど」

「ちゃんと検査したほうがいいばい。いつでもおいで」

 

A医師はとろんとした赤ら顔で年始の開業日を教えてくれたけれど、今度はわたしが内心キレていた。いますぐ診て。無理ならいますぐ診てくれる病院を教えて。蕎麦すらろくに飲み込めないなんてどう考えてもおかしいんだから、放っておかないで。

 

もちおの隣には数年ぶりに帰国したわたしの兄がいた。長年格闘技を続けている兄はボクサーだったもちおに敬意をはらっており、普段はわたしがもちおの身体のことをあれこれ心配すると「彼はプロとして自分の身体を考えてきたんだから」と諫める。しかしこのときは兄も義弟の様子がおかしいと思ったようだった。

 

「どこか悪いのか。病院いった方がいいぞ」

親族とわかれて車に乗ると、兄は強い口調で夫にいった。

「いや、胃がちょっと悪くてですね。年あけたらいきます」

「いや、このあとすぐいけよ。あるだろ、開いてるところ」

「んー、そうですね…」

 

よし、いまだ。もちおが義兄に遠慮してもにょもにょいっているあいだにわたしは近くで開いている病院を検索した。

「ここから車で15分だって」

「ちゃんといけよ。じゃあな」

 

兄が車から降りるともちおは烈火のごとく怒った。

「いかない!病院は来年いく!」

「来年になったらまた忙しいっていうでしょ」

「俺はもう疲れたの!いまから病院なんかいきたくない!いかない!」

「なにいってんの!」

「ずっとお義父さんたちにつきあって疲れてるんだよ」

そりゃ疲れるわな。身内のわたしだって疲れる。そういわれると後ろめたい。

 

「でも心配だから病院いって」

「そっちの心配のために俺はまたふりまわされるのか」

「だって本当にずっと具合が悪いじゃない」

いかない、いかないと駄々をこねるもちおを乗せ、わたしはGoogle先生の検索結果にしたがって病院へ車を走らせた。気のせいなんかじゃない。もちおは本当にどこかがすごく悪い。今日の怒り方はいつもと違う。

夫はふだんシリアスな場面でも人を食った冗談をいっては妻を煙に巻くのが大の得意で、ダジャレの一つも出ないときはだいたい熱があったり、お腹を壊していたりする。支離滅裂な言いがかりをつけてくるときはとくにそうだ。

 

病院は見つからなかった。なぜ見つからなったのかいまでもわからない。とにかく検索結果に出た場所に病院はなかった。もちおは不機嫌と体調不良と当てつけのトリプルコンボでこれ以上ないというぐらいのしかめっつらで助手席の椅子を倒して目をつぶっていた。

「ないね。なんでだろ」

「帰りたい」

「年が明けたら病院へいってね?」

「ああ、はいはい。いくっていってるだろ!今日は帰って寝る」

「わかった」

もちおは安堵と勝利で少し機嫌をなおした。

 

確かにもちおは結婚以来、わたしの親戚関係にこれ以上ないくらいつくしてくれている。逆だったらどれほどの気苦労だろう。客観的に考えればそれと病院へいくこととはトレードできる問題ではない。けれどもこのときもちおの頭の中では「病院へいかせたいのは妻だ、妻のために年末年始の予定をあけた上でさらにそれ以上の要求を呑まされるのは不当だ」ということになっていて、わたしはその勢いにおされて病院へ連れていくことを断念した。

 

A医師がいますぐではなく年明けに来いといったこと、病院が見つからなかったこと、いま振り返ればそれらも予定調和的な出来事だったように思う。