スキルス胃がんだったとは!

夫がスキルス胃がんステージ4の告知を受けてからのこと

セブンイレブンの天津甘栗と伊都物語の飲むヨーグルトで生き延びる

食の細さが極まっておちおち水も飲めないほど胃が細くなり、4月を生き延びられるだろうかと震えていたが無事5月を迎え、落ち続けた体重もいくらか戻ってきた。食べられるものが見つかった。伊都物語飲むヨーグルトセブンイレブンの天津甘栗だ。

 

食道がんは喉を食事が通らなくなるが、スキルス胃がんは口にしたときは普通、喉も難なく通過して、胃に入ってから腸に通過するまでに難関が待ち受けている。胃壁が厚くなり、胃の内部が細くなっているので、鼻から経管栄養を摂取するのも胃ろうをするのも難しいのではないかと思う。可能性があるとすれば腸ろうだけれど、腸ろうはほぼ一日中栄養バッグを下げ続ける大仕事だと聞く。

 

スープを裏ごしして出していたが、繊維が少しでもあると下水管にゴミが詰まるように胃に詰まるらしく、見る方も辛くなるほど何時間も苦しむ。食べると苦しいと思うから食べることが怖くなる。外から栄養が入って来なくなるとがんはタンパク質を分解して使おうとするので体重は容赦なく落ちる。168cmで70kg超えだった身体は46kgを切るまでになり、背骨が浮いた後ろ姿が痛々しい。*1Twitterで流れてきた栄養失調の日本兵の写真を見てもちおのようだと思った。

 

告知された年、つまり2016年はお百度を踏むように温泉に通ったが、体調がよくなるにつれて高まった仮想通貨熱と反比例してもちおは温泉から遠ざかっていた。しかし薬も効かない、サプリ類も飲めない、食事もできないとなってもちおは再び温泉通いを再開した。

 

がんにはラドン温泉がいいといわれているが、もちおが好きなのは我が家から少し離れたところにあるラドン温泉ではなく、さらに遠いところにあるアルカリ泉。抗がん作用はどうかわからないが、泉質はとてもよく、何より施設の雰囲気がいい。

 

弘法大師ゆかりの薬湯という霊験あらたかなうたい文句にすがり、祈るような気持ちで毎日車でバイパスを飛ばす。一ヵ月の入湯代金は交通費を合わせて二人で約二万円で、財源は「三朝温泉へいって湯治に使ってほしい」と妹が送ってくれた見舞金だ。温泉地へ泊まり込むことを考えれば通いの湯治は費用対効果が高い。3月の時点ではもう一度福岡~鳥取という長距離ドライブをもちおが耐えられるかどうかもわからなかった。

 

この弘法大師ゆかりの温泉で「伊都物語」という地元ブランドの無糖の飲むヨーグルトを買った。

 

今年に入ってもちおは食事の通りが悪いときによく市販のヨーグルトに義妹夫婦が送ってくれたマヌカハニーを入れて食べていた。加糖の飲むヨーグルトは手軽だが、糖質コントロールが難しい。背に腹は代えられないと飲んでいたけれど、美味しくもないようでなかなか減らない。そうこうするうちにヨーグルトに飽きが来たのか、ここしばらくはどちらもすすまなくなっていた。もちおは一度飽きるとどんなに飢えていても食べられない。ラコールなどハイカロリーの栄養ドリンクも一度不味いと思うと口をつけない。「贅沢いってる場合か」と言いたくなるが、飢えて一番困っているのは本人だ。甘ったるくドロリとした栄養ドリンクは胃にこたえるといって途中で飲むのを止めてしまうので入院中に出されたパック飲料はほとんど持ち帰ることになった。

 

「ねえ、これは無糖だし、牛の飼い方からこだわっているし、飲めるんじゃないの」「美味しそうだね。でも高いよ」「風呂上りにビールを飲むと思えば大したことない」いま思えばビールの方が安かった。しかし口に入れて飲み込めるもの、腹に納まるものは栄養価もさることながら「このまま飢えて栄養失調で死ぬんじゃないか」という精神的な危機をなだめる効果も期待できた。そしてそれこそまさにわたしたちが必要とするものだった。弘法大師ゆかりの薬湯で売っている飲むヨーグルト、これも何かのご縁と500mlを1本買った。確か、1本400円だったと思う。

 

※いまみたらAmazonでも売っていた。

 

とても濃厚な、飲めるプレーンヨーグルトくらいの濃度のヨーグルトだった。カロリーはたいしたものではないけれど「飲み込めた、苦しくならなかった、吐かなかった」ということがどれほど希望になっただろう。思いがけず、これが転機になった。

 

この日もちおはふと思いついて帰り道セブンイレブンへ寄って天津甘栗を買った。天津甘栗は口の中でサラサラのでんぷん質になるので、胃に詰まらないのではないかと思ったのだった。果たして栗はもちおを苦しめることなくカロリーを補給してくれた。あっという間に小袋を一袋食べてしまったので心配したが、胃はこれを難なく受け入れたようで、もちおは嬉しさとひもじさに煽られ、続けざまに二、三袋食べた。これはやり過ぎだったようで、いくらか苦しんでいたが吐かなかった。

 

甘栗一袋は裏ごししたポタージュスープ一杯と同じほどのカロリーだ。スープを温め、裏ごしするには手間暇がかかるが、甘栗はどこのセブンイレブンでも手頃な値段で売っており、常温で保存でき、一口単位で手軽にパクパク食べられる。ポタージュスープを一杯飲むのは支度も消化も一苦労だが、甘栗はこれぞファストフードという手軽さで支度も消化も容易だった。

 

この日からもちおは毎日セブンイレブンの天津甘栗を食べ、伊都物語の飲むヨーグルトを飲むようになった。900ml入りをだいたい一日で飲む。無糖は100mlで83kcal、加糖は90kcalなので、900mlでは744kcal、加糖は810kcal.甘栗は一袋80gで143kcalとあるので一日1000kcalほど摂取できるようになった。これまでの3倍から4倍のカロリーである。

 

再びサプリやリポゾームビタミンC、ミドリムシやフコイダンカプセルが飲めるようになり、気分も明るくなり、燃やすものがなく冷え切っていた身体も温まったせいか、最近はゆっくり少しずつなら固形物が飲み込めるようになってきた。命綱だったスープは身体を温める食卓の彩に戻り、味わいながら余裕をもって飲めるようになってきた。

 

伊都物語のヨーグルトの予想外の効能はもう一つある。腸内環境が整ったのか、これまでコーヒーエネマ頼みだった排便が自然に通じるようになり、立派な雲子を拝めるようになったのだ。もちおは長らく市販のヨーグルトを食べたり飲んだりしていたが、こんなことは初めてだ。伊都物語のこだわりが腸内細菌を唸らせている。

 

基礎代謝に基づくカロリー計算からすると信じがたいのだけれど、伊都物語の飲むヨーグルトとセブンイレブンの天津甘栗でもちおの体重はみるみる増え、二週間ほどで49kgまで戻った。

 

あれがいい、これがいいと聞くたびに何とか食べてほしいと思うけれど、支度が大変なもの、高価なもの、何よりもちおの口に合わないものは続かない。方々を尋ね歩き、さんざん探し回って来たけれど、こんなに近くに手軽に口にでき、容易に胃を通過し、手が届く値段のものが見つかった。お蔭様、弘法大師様様である。

 

*1:ここ20年ほど174cm/45kgの自分がどれほど痩せているのかを客観的に見て逆に少し怖くもなった。

すり鉢、味噌漉し、おろし金とスープ

固形物が入らなくなった。寿司を一貫食べるだけで吐いてしまう。

 

夫はスジャータのコーンポタージュとゼリー飲料とヨーグルトで凌いでいたが、果糖ブドウ糖液でカロリー摂取するのは糖質制限からすると最悪のチョイスで気が重かった。そしてある日突然ゼリー飲料も受け付けなくなった。消化の問題というより飽きが来たらしい。

 

入院中は重湯と吸い物にポタージュスープ、ゼリーと糖質爆弾系飲料が出たが、これらもほとんど口にしなかった。ゼリーと飲み物類は持って帰ってきて、少しずつ飲んでいる。

 

胃の通りが悪いので、水もごくごくは飲めない。ビタミンCをはじめサプリやビタミン剤も胃に余裕があるときしか飲めなくなった。胃を圧迫するガスとは違うヒリヒリとした熱を伴う痛みが昼夜を問わず出てきて、先週から痛み止めを服用している。

 

状況は非常に厳しい。2月のはじめは普通に食事ができていたのに悪夢のようだ。

 

しかし捨てる神あれば拾う神ありで、わたしは夫の闘病が始まって以来久方ぶりに頭と手足が噛み合うようになり、してやりたいと思うことをあれこれしてやれるようになった。出来るといってもスラスラと手足が動くわけではないが、「がんばれ、がんばれ」と自分で自分を励ましながら、ひとつひとつ物事を計画し、実行し、片づけることができている。出来ないときは本当にできない。えっちらおっちらでも出来るのは僥倖だ。

 

適度な割り切りと小さな工夫、気長な手間暇の実現が可能になった結果、デパ地下で冷凍スープを買い、味噌こしで漉して、滓をすり鉢で当たり、もう一度味噌こしで漉して出すことを思いついた。辰巳芳子のあなたのために―いのちを支えるスープで、つみれ汁のレシピがすり鉢仕様だったことを思い出したのだ。細かくなっていればいいかというと、ミキサーやブレンダーではだめで、スピードカッターによるみじん切りの具とすり鉢で徹底的にすり潰した具とでは胃のおさまり方が違う。

 

果たしてスープは無事胃に納まり、血となり肉となったようである。お椀一杯で150カロリー前後ほどなのでグラスフェッドバターをひとかけ入れる。調子がよければこれが日に2~3杯入ることがある。他に無糖ヨーグルトにお見舞いにもらったマヌカハニーを入れて少々いただく。

 

青汁とブルーベリーとプロテインパウダーと低温殺菌牛乳のシェイクも茶漉しでこし、ブルーベリーの皮はすり鉢であたり、再度こしたものを出すと少しずつ飲むことができた。茶漉し、味噌漉し、すり鉢、そしておろし金は偉大だ。

 

貧血気味だというので鶏レバーの生姜煮をすり鉢であたって親指ほどの団子にして出した。食べられた。納豆をすり鉢ですり潰し、葱をおろし金でおろし、卵液と山芋と粉にした鰹節を味噌こしで漉して玄米粉と混ぜて焼いて出した。これも食べられた。すり鉢であたった粥なら食べられるのではないか。茶碗蒸しもいけると思う。しかしここであれこれ勧めると食べることの不安とイニシアチブの問題で頑なになることもある。匙加減が難しい。

 

食事は栄養を摂り、身体を温め、動かすためだけでなく、食べることで心を落ち着かせるためにも大切なものだ。口にしたものを飲み込んで吐かずに済むのがどれだけありがたいことかは、喉から手が出るほど空腹なのに「食べたら苦しくなるかもしれない、吐いてしまうかもしれない」と食事を恐れるようになるとよくわかる。

 

「次の薬が効くといいなあ。そしたらラーメンやフィッシュバーガーをまた食べたい」と夫は言う。食べられるようになったら薬になるもの、身になるものをどしどし召し上がっていただきたいのに、ジャンクフードばかり欲しがるのでため息が出る。夫はポテトチップス、チョコレート、菓子パン、炭酸飲料、甘くとろみのある紅茶やコーヒー飲料、アイスクリーム、クッキー、ビスケットが好きで、酢が大嫌いで、わたしの料理は味が薄いといつも不平を鳴らしていた。

 

いまは小さなお椀一杯のスープをようやく飲んで、「ありがとう。美味しかった」と横になっている夫。がんは慢性病、生活習慣病で、闘病に際して食習慣、生活習慣を変えられるかどうかが快癒の分かれ道になる。思いがけずスープ生活を余儀なくされた夫の予後が苦労に見合うものであることを祈るばかりだ。

いってしまった人たちのこと

夫が告知を受けた一昨年、知人の紹介でまだ二十代のがん治療中の女性と知り合った。彼女が去年の暮れに亡くなったと聞いて夫と二人でご家族に会いにいった。三十代になったばかりだった。

 

告知直後、何か役に立つ情報はないかと片っ端からがんブログの梯子をしていた頃、何よりショックだったのは最新ブログに「家族のものです。この度」ではじまる知らせが綴られていることだった。がんブログを梯子するとこうした最終エントリーが続く。バタバタ人が死んでいく。がんだから死ぬのだ、そしてそのがんが我が家へやってきたのだという気持ちになる。 

 

人はいつか死ぬ。けれども普段わたしたちはそれはまだ先のこと、髪がすっかり白くなり、皺だらけの顔を鏡で見る頃だと思っている。平均値の出し方は知っていても、平均寿命とは大半の人がその年齢まで生きるという意味だと思っている。時ならぬ死は大きな衝撃をもたらすが、実際には「時ならぬ」わけではなく、想定外だっただけで想定自体が現実離れしていたことに気づかされる。人はいつでもどこでも死ぬ。この二年でゆっくりとそのことが身に染みてきたように思う。

 

告知を受けて数日だったころ、夫はかつての同僚を心不全で亡くした。翌年、夫と同じころ告知を受けた知人が二人亡くなっていたことを知った。小林麻央さんが亡くなり、最近では大杉漣さんがドラマの撮影中に亡くなった。名前を上げたらきりがないほど毎日、毎日人は亡くなる。おかしなもので、そのたび夫とわたしは以前よりショックを受ける。

 

ご遺族を訪ねた日、夫は静かに遺影に手を合わせ、黙って長いこと祭壇を見つめていた。祭壇には幼い頃から学生時代、成人式、最近のものまで数々の写真が飾られていた。花のような笑顔の愛らしいお嬢さん。「この子はあまりに愛らしいから神様が天使に召されたのだ」という一昔前の洋書の決まり文句が浮かぶ。告知から2年、あっという間のことだった。

 

標準医療と並行して食事療法や各種健康療法功に力を入れたが、途中功を奏さない化学療法の変更があった。辛く苦しく副作用ばかりの化学療法にうんざりした彼女はそれを拒否した。それから親子で生活習慣と食事や民間療法に励んだ。日常生活はずいぶん楽になり、家族は痛みと苦しみを軽減する方法を特定しつつあった。

 

「でも、入院後そういうことは病室ではほとんどできなくなってしまった」とご家族はいう。病室でできる民間療法は限られている。咽頭がんの伯父を看病していた母は、いまもそのことを悔やむ。

 

「かなり元気になっていたんです。ちゃんぽんを一杯食べたりしたこともあった」

という言葉が胸に迫った。「一杯しか食べられなかった」から「一杯も食べた」に変わる日々に覚えがある。腹鳴の激しさ、それに苦しむお嬢さんを見る辛さをご家族から聞く。夫がこのことをどう感じているか、不安になる。わたし自身も恐ろしい。

 

お嬢さんがまだ元気だったころ、ご家族にはうちで助けになっていたものを伝えてあった。お嬢さんは化学療法の常として起きる便秘に悩まされた。夫を間近で見ていて痛感するのは便秘が解消できるかどうかは毒素排出に大きく影響し、副作用の程度を左右するということだ。「でも、エネマは嫌だといって」とご家族はいった。「本人が望まないことにはどうすることもできませんよね」「そうなんです」よくわかる。

 

「何がいけなかったんだろうって考えてしまうんですけど」「娘は一度もつらい、苦しいと言わなかった。もっと気持ちをぶつけて吐き出させてあげられたらよかったのに」「本当に治ると信じていたみたいで」

 

夫はわたしには泣き言をいいまくるし、暴言暴論も吐くし、悲観的なこともいう。それにうんざりすることもある。「心をゆるしてくれてうれしい」なんて気持ちになれない日もある。いい加減に寝かせてくれ、静かにしてくれと苛立ち、ギャーギャー言い合うこともある。でも、人によっては我慢しているというわけではなく、とくに攻撃が自分にも他人にも向かわないこともある。それがご家族にとって心残りになることもあるのだと知った。

 

わたしと夫は対等な大人で、血の繋がりでいえば他人だけれど、お腹を痛めて生み育てたこんなにかわいらしいお嬢さんを、ただただ見守り見送るしかないという苦痛はどれほどだろう。お嬢さんに続く命を未来に思い描いてこられたであろうご家族の思いは想像するにあまりある。

 

「娘のために祈ってくれていたある方が、『この子のことはもう心配しなくていい。命を終えると同時にまっすぐに神様のところへいったから』とおっしゃったんです。『でも、私たちは?』って」ご家族は苦笑された。四十九日も待たないでいってしまったと言われたご家族の心境は複雑だ。

 

「今日は本当にどうもありがとうございました。ご主人、どうか元気になってくださいね。娘のために祈ってくださった方がいたように、私もご主人の回復を祈ります」

知人とご家族は夫を激励し、わたしたちの車に手を振って見送ってくれた。

 

長閑な田圃の上に広がる午後の空の下、車内の空気はなんともいえないものだった。ご遺族にお会いできてよかった。祭壇に向き合えてよかった。歓迎されてありがたかったし、お話から学ぶところは大きかった。けれども、お嬢さんの時ならぬ死をこれでよかったという気持ちにはどうしてもなれない。ただ現実を受け止めるしかない。いずれ訪れるわたしたちの死と別れについても。

 

「俺もあそこにあの人はおらんと思ったよ。もう、次のところへいってしまったんやろうなと思った」と夫はいった。「死んだあとに続きがあの人にあるなら、俺にも続きがあるやろうなと思えた」

 

「縁起でもない」といえなかった。わたしたちは死ぬことが当たり前の世界にやってきた。いつの間にか、何をするにも「もし近々死んだら」を省略して話すようになってきた。がんは奇妙な病気だ。ありふれていて、昔からあって、それなのに人を普通ではない世界に引きずり込む。

胃がんとは別の胃の不調

闘病ブログは更新がないと生きているのかどうかわからなくて不安になりますよね。おかげさまで生きています。しかし記憶はおぼろげなので闘病ブログとしては参考になることが少ないかもしれない。きちん、きちんと経過を記録される方々を尊敬する。

 

今回はがん治療中の不調ががんのせいかどうかわからないという不安と、それにどう対処したかを書く。

 

さて、前回の入院のあとにもう一度入院してシスプラチンを打った。これで3クール目になるはずだ。2クール目のあとに水を飲んでも苦しがるような時期があり、一昨年の告知のときのような、つまり胃の内部をがんが圧迫して水さえ吐いてしまうような状態にあるのかと不安になった。

 

やはり去年胃切除手術をした方がよかったのではないか、シスプラチンは効果を上げていないのではないか、温泉にいくのをやめたから、夜更かしと食生活が、とあれこれ気を揉む。しかし揉んだところでどうにもならない。こういうときはブログが書けない。つまりこうしてブログを書いているいま、夫の容態は安定している。結果からいえばシスプラチンは効果を上げていた。がんとは別に胃の不調が問題だったようで、百草丸を再開してから少しずつ調子がよくなってきている。少し順を追って書いてみようと思う。

 

夫の容態は年末年始でまずまず安定していた。苦しむようになったのは1月末に入ってからだ。わたしたちは先月遠方から来客を迎え、近隣を案内した。夫は家にいるといっていたが、直前で一緒にいくことになった。夫は行くとなったらとことんサービスする性分で、道中車の運転を一手に引き受け、寒い中あちらこちらへ出向いてまわった。そしてその足で鹿児島へいった。福岡から鹿児島までは車でおよそ4時間。鹿児島では一泊して、がんで他界した知人の家族を訪ねた。長距離運転に加えてそのダメージがとても大きかった。

 

翌日からがくんと容態が悪くなった。食べるとすぐに胃が苦しくなるので食べられない。数日前に一人前の食事をとれていたのが嘘のようだ。プールに通っていたなんて夢のようだ。元気が出ないだけではなく、夜な夜な身悶えして苦しみ、苛立ち、暴言が増えた。希望が持てないと自制心を頼みに健康的な暮らしを維持するのは難しく、勢い自暴自棄で刹那的な暮らしになる。

 

いちばん苦しいのは食事のあと胃の中に発生するガスが胃壁を圧迫することだ。胃の内部が狭まっているせいか、ガスはなかなかげっぷやおならとして出てこない。夫は食事のたびにガスで腹部や背中に痛みを覚え、何時間も身体を捻って悶絶するようになった。とくに深夜から夜明けまでがひどい。眠ろうとすると夫が唸り声をあげて身を起こすのでわたしも眠ってはいられない。背中をさすり、お腹に手を当て、声をかける。昼夜逆転が続く。

 

通院検査の日、久しぶりにあの「命は人の手を離れたところにある」という気持ちになった。夫の選択はどこかで間違ってしまったのかもしれない。しかし修正する機会が目の前にあっても、夫がそれを選ぶかどうかはわたしの手に負えない問題だ。何を食べ、何を飲み、どう暮らすか、どんな治療を受けるか、それを決めるのは夫だ。わたしはただ夫の望みを支援し、わたしが望む結果ではなく、夫が納得のいく結果を見るのを見届けるしかない。寒い待合室でわたしの肩にもたれて眠る夫の眉根を寄せた顔を見ながらそう思った。

 

しかし我々の覚悟に反して検査の結果は悪くなかった。医師は夫の不調の訴えに困惑気味ですらあった。少なくとも進行している様子はない。むしろ前回より各種の数値はよい。どうやら胃がんとは別に胃の不調が問題の引き金になっているらしかった。要するに悩みと不健康な暮らしが問題を悪化させていたのだった。

 

わたしたちはキツネにつままれたような気持ちで病院をあとにした。後に夫が最近御岳百草丸を飲んでいなかったことがわかり、再開した。またアスパラギンに関する記事を読み、高温で加熱された小麦のアスパラギン含有量に驚かされ、何度目かの「パンは止めよう」という決意を新たにした。

がん進行・転移に食品が影響か=英研究 - BBCニュース

 

夫はパンを食べるたびに特に激しい痛みと苦しみに襲われ、「小麦は胃と腸の中で粘る」「小麦を食べるとガスが発生して苦しい」と常々いっていたのだけれど、食べるときの誘惑の大きさにはっきりパンを避ける決心がつかなかった。告知後半年間のストイックな暮らしに戻れたらと思うけれど、去年のいまごろ完全に無治療でいたあいだにすっかり気が緩んでしまった。生活習慣病は生活習慣を改めることが難しいからこそ難病なのだと思う。

 

わたしは夫が炭水化物をとるたびに不安で、パンや麺類など小麦食品を食べたがるのを見るたび絶望的な気分になっていた。しかしアスパラギン含有量を調べ、高温で加熱された小麦は低温で調理されたものより含有量が高いこと、砂糖はパンと比べて含有量が低いことなどを知り、少し考えを改めた。小麦を高温で調理したもの、つまりパンや焼き菓子は極力避ける。麺類と糖質は控える。

 

夫はいまも食事をとるのを怖がる。お腹が減るのはつらいけれど、食べた後に七転八倒するのが怖いからだ。それでも少しずつ状態はよくなっている。小康状態を保って、家で人間らしい暮らしをしている。何より七転八倒するような痛みと苦しみは胃そのものの不調と構造の問題で、がんによる激痛ではないとわかったことは大きい。

 

この塊は腫瘍かもしれない、この不調はがんが悪化したのかもしれない、今後いっそうひどくなると思うのはとても怖い。そうでないとわかれば手の打ちようもある。不安に飲み込まれてしまわないようにしたい。

シスプラチン2クール目 前日

闘病ブログを書く方々のまめさに敬服しつつぼちぼち書きます。

こっちにもときどき書いてます。

No swim, No life - はてこはときどき外に出る

夫の寝かしつけ - はてこはときどき外に出る

 

さて、前回の点滴以降、病院都合で腫瘍マーカーもCTも胃カメラも調べることができず、年が明けて先週、1月5日(金)にようやく腫瘍マーカー検査をした。二つの腫瘍マーカーのうちひとつが、基準値の100倍を超えていた。小数点打ち間違えたんじゃないかと目を疑う。

「1000倍超えることもあるので…」

と医師は歯切れ悪くも平然としている。1000倍超えても平気なものなのか、絶体絶命なのかわからないのでちっともホッとしない。

 

薬は効かなければ変える。次はパクリタキセルと何かの組み合わせ、その次はなんと噂のオプジーボを使うという。これらの副作用リストがまたすごくて言葉を失う。腸壁に穴が開くとか血栓ができるとかそれ自体が病という症状をさらさら書いて見せる医師。

「そうした副作用はどの程度起きるものですか」

「これら全部あわせて数パーセントです」

医師は「ね、たいしたことないでしょう?」という体で平然というが、もちおは目を丸くして

「数パーセントって、大きいですよね?」

と念を押した。100人中何名かにそうした重篤な問題を引き起こす薬は間違いなく劇薬である。しかし抗がん剤の世界はがんさえ縮小すればすべてが正当化されるという狂った世界なので、医師は平然としている。保険対象とはいえ医療費の額もすごい。

「薬屋で営業してるやつがいってたけど、患者一人入るとガッツポーズするって」

という知人の話を思い出す。

 

もちおは薬を変えたがらなかった。シスプラチンはオキサリプラチンと比べて体感できる不快感が少なかったのでもう少し続けてみたい。しかし効かない薬を続けても意味がない。不快感がもっとも軽いのは休薬することだ。医師は難しい顔をしていたが、この患者はいっても聞かないという諦めの気持ちがありありと出ていた。

 

「オキサリプラチンでは劇的な効果があった。同じプラチン系の薬をたった一度で止めるなんてありえない。病院のベッドが空かないから違う薬に変えたいんだろう」

というのが、もちおが後ほど語った本当の理由だった。なんにしてももちおの身体、もちおの命だ。決定を支持するしかない。

 

もっと早く、春の検査のあとに手術をするべきだったのではないか、今からでも転移がなければ手術を検討してみてはどうかと思うこともあるし、話すこともある。とはいえもちおがそうしたいと本心から願うときに支援するほかは、圧力をかけないようにしたい。

 

こうして1月5日(金)からTS-1を飲み始めた。TS-1がはじまるとみるみる不平不満愚痴泣き言が増える。どこまでが肉体的な辛さで、どこからが気の病で、どの部分が甘えなのか判別できない。いずれにしてもわたしに出来ることは限られているので、「おお、かわいそうに、かわいそうに。つらいねえ、こっちへいらっしゃい」と抱きしめて肩や背中を揉んでやる。ありがたいことに、これがけっこう効く。

 

そして昨日突然電話が来て、今日、1月10日(水)の午後からの入院が決まった。急すぎて会社勤めだったら対処できない。わたしは午後に入っていた仕事を断ろうとしたが、もちおが「自分で病院へいくので、仕事を済ませてからきてほしい」というので、そうさせてもらった。「今日はすることもないから、面会は明日でいいよ」とはならない。たとえ5分でも10分でも顔を見せればその方がいいのだ。

 

仕事が長引き、病院へ着いたのは18時前だった。病室のカーテンを開けるともちおは病院食をもしゃもしゃ食べていた。血液検査とCT、心電図を済ませたという。

「ここ、ここ触ってくれん?」

といまにも死にそうな哀れな声で肩を指さす。

「凝ってるの?」

「いや、食事をするとリンパが詰まるようでいつも痛い」

いかにも不吉な様子でいう。しかしわたしはもう前のように想像力を暴走させ、動揺したりはしない。わたしはベッドに腰かけて、眉根を寄せて横たわるもちおにやさしくいった。

 

「ここ、膝に頭を乗せて。肩を上に。そうそう。枕も入れようか?」

膝枕に横たわるもちおの肩をぐりぐりと揉む。痩せた肩はゴリゴリだ。

「あ!痛い!…そう、そこそこ…ああ、うう」

ゴリゴリをぐりぐりと揉まれるたびにもちおは気持ちよさそうに呻き声をあげた。

「ああ、凝ってたんだね。ガンがリンパに転移してそこまで広がったんじゃないかと思ったよ。どうしてそんなに凝ったんだろう?」

「夜更かししてパソコン見て運動しないからだよ!ちゃんと寝て運動して」

「そうか…ああ、うう」

もちおはそのまま眠ってしまった。途中医師が巡回に来たのにも気付かなかった。入院は緊張する。がんは不安な気持ちで心を疲弊させる。だから見慣れた家族の顔を見て、触れることには意味があるのだ。医師と看護士に白い目で見られようとも。

 

今夜から塩水を点滴して、明日から数日かけてシスプラチンを点滴する。退院後はTS-1を服用する。シスプラチンは腎臓のダメージが大きく、尿の出が極端に悪くなる。抗がん剤はどれも便秘を引き起こすが、こちらはコーヒーエネマがあるので物理アタックで解決できる。しかし尿の出が悪いときは何を飲んでも腹が膨れて身体が浮腫むだけで尿は出ない。こちらは経験したことのない方には想像しづらいかもしれない。

 

もともとわたしの腎臓が弱いので、我が家には腎臓をいたわるお茶がいろいろある。「おお、よしよし、いまお茶をいれてあげるから待っていてね」と抱きしめて湯を沸かす。これがこれからしばらくわたしにできる愛情表現。

シスプラチン六日目 化学療法中の便秘 VS コーヒーエネマ様

深夜に7イレブンで石垣の塩厚切りポテトを買ってきて食べている。今日はカップ麺が食べたいといって、やはり7イレブンの鰹・昆布のだし天ぷらそばを食べていた。いいのか。「でもここで止めて後々悔いが残っては」と生暖かく見守るわたし。この手でなんでも言いなりになってしまう。病気がちな子供が「長く生きられないのだから」と甘やかされる物語があるが、ああなる気持ちがよくわかる。

 

食事の話のあとですが、ここから尾籠な話が続くので、ご注意願います。

 

昨日は帰ってすぐにコーヒーエネマを二度やった。珈琲浣腸ですね。吐き気止めが腸の蠕動を阻害するらしく、丸一週間排便がなかったという。緩下剤も歯が立たない。コーヒーエネマという物理アタックアイテムがあって本当によかった。

 

化学療法中の便秘はよくあることだそうだが、排便がないと食欲が落ちる。毒素が身体に蓄積されるので体調もふるわない。何より苦しい。祖父は病気知らずだったけれど、晩年便秘に悩まされ、摘便してほしいと何度か病院へいったが、いま思い出しても気の毒で胸がふさぐ。強い下剤を出されて脂汗を流し、「これは戦場にいたときより苦しい」といっていたのも忘れられない。本当にあのときエネマを知っていたらずっとずっと楽に助けてあげられたのに。

 

シリコンのエネマバッグにぬるま湯に溶かしたエネマ用コーヒーをいれる。これをトイレのドアに引っ掛けるフックに吊り下げ、肛門から注入する。量は600㏄から1000㏄くらい。一度に入らなければ何度かにわけてもいい。もちおはいまやエネママスターなので、一度に1000㏄くらいを入れてしばらくその辺を歩き回ったり、横になって腹をゆすったりする余裕がある。もちおが闘病生活に入ってからもっとも鍛えた筋肉は括約筋だ。

 

一週間の便秘は強力だったが、エネマにはかなわない。一度目の注入で目標値は達成したが、念のためもう一度注入して圧縮された腸内物質を緩めてさらに成果を上げた。滞留期間が長かった排出物は強烈な臭いがする。出て行ってくれてよかった。

 

それから夕方までひと眠りして、夜はもちおの運転で大戸屋へいった。帰って仕事をしていたら、隣にやってきていろいろ話しかけてくる。仕事に手が付かなくて少し焦る。でも今夜は退院したばかりなのだ。「お家に帰れてよかったねえ、隣にお座り。お話しようか」と仲良くすごした。

 

丑三つ時もまわってから寝室へいくと呻き声をあげながら苦しんでいた。さっき食べた深夜のポテトチップスがいけなかったのでは、と思うが、これは夜泣きなのである。人は不安になると暗いうちに眠ることを恐れるようになるのだと、わたしは人生経験を通して知った。

 

静かな暗闇の中で目を閉じると、日中の喧騒でかき消されていた不安や恐れがまざまざと感じられるようになる。しかしスマホkindle、深夜ラジオに寝かしつけを頼めないほど疲れていると、頭と心だけがただただ喧しく、なかなか寝付けない。

 

「明るくなったら眠れるよ、もうすぐ夜が明ける」と言いながら背中をさすり、腹を掌で温める。明るくなったらあれをしようね、朝になったらこれをしようね。ところで、今日のあれ、おかしかったね。これには腹が立ったね。

 

外がうっすら明るくなる頃、もちおは寝息を立て始めた。わたしも寝返りを打って眠った。午前に予定を入れるのは、当分やめないといけないな。

五日目のシスプラチンと病院の妖怪

血液検査の結果がよかったようで、 今日で退院。CTは造影剤で腎臓に負担をかけたくないと延期してもらったそうだ。医師はいずれにせよなるべく早めに経過を見るべきだといったが、CT検査をしたところでよくなるわけではない。ダメージに追い打ちをかけるような真似をするのは馬鹿らしい。そんなわけで丸一週間の入院が終わる。今後は自宅でTS-1の服薬

 

入院費用は月をまたいだためざっと8万円ほどかかった。この他に見舞い時の駐車場料金とガソリン代。これを毎月これをやるのかと思うと思いやられるが、どうなるかわからない。とにもかくにもひまわり生命の「勇気のお守り」に入っていてよかった。株をやるくらいなら60歳満期で生涯保証型の医療保険と、がん保険に入っていた方がいいですよ、みなさん。こんなに大きな回収をすることになるとは思わなかった。


昨日、もちおは妻を階下まで見送ったあと、廊下でアラサー女性三人組とすれ違った。三人とも恰幅がよく、横に並んでよちよちと歩いてくる。その真ん中にいたひとりが、すれ違いざまにもちおの目を見て

「目が死んでる」

といったという。

 

話を聞いて「ええ?!」と思わず声が出た。腹が立つより驚いて信じられなかった。見知らぬ病衣の入院患者に死を示唆する捨て台詞を吐く見知らぬ女性。病院の怪談のようだ。妖怪の類なんじゃないのか。

「それで、どうしたの」

「どうもできんわあね!はー、俺が本当に死にかけとるのにからこいつは!まったく」

もちおはひとしきり毒づいたが話は昨日のことだ。後の祭りである。

「前世こっぴどく振った人が来世で復讐してやろうと思ってやったんじゃない?」

「そうか。もっと酷い振り方をしてやればよかった」

 

どういうわけかもちおは死を匂わせる意地悪や嫌味をいう女性によく当たる。言っている側にとってはちょっとした意地悪らしいこうした悪意は、悔しいことに非常にダメージが大きい。

 

見知らぬ男からすれ違いざまに「ブス!」といわれたという女性は多い。なぜそんなことをするのかわからないが、やり返してくる恐れのない相手、やり返されてもたかが知れている相手に通り魔的な悪意をぶつける人は少なくない。病院では患者にそれをやる人がいるということだろう。

 

退院の支度をしていたら向かいのベッドの耳の遠い老人がぱっと顔を輝かせてやってきた。

「退院するとね?」

「はい」

「あーっ!いいねえ。うらやましい。俺はまだまだおらないけんっちいわれとう」

「居った方がええですよ」

「ああ?」

「ここに居った方が、ええですよ」

彼は独り者で、帰れば身の回りの世話をしてくれる人もいない。近所に娘が住んでいるそうだが、息子が事業に失敗して家を売ることになったので、いまは年金暮らしなのだとあとでもちおが話してくれた。大声で話すので筒抜けなのだ。

 

「いや、帰りたいよ。家におったら何でもできるもん」

そらそうだよな。このじいさんは耳が遠いせいもあるが、声は張るし他人に興味もあるし、人生を謳歌している感じがする。ここにいても退屈だ。

「俺はがんなんよ。手術もできんし、治らん」

「僕もです」

「ああ?!あんたもがんね!」

うれしそうだ。病が癒えて退院していく働き盛りの若い男だと思ったら仲間だった。

「俺は大腸から肝臓へ転移してくさ、肛門までなって、手術ができん。あと5年くらいしか生きられん」

 

わたしともちおは恐らく同時に(…5年もあればいいじゃん…うちは5年生存率10%切ってるんだぜ…)と思った。*1

「でもいいと。俺はいま78歳やき、5年生きたらそれ以上生きんでもいい」

じいさんは明るく力強く断言した。

 

 

「あんなにいわれたら『あんたの寝言で眠れんとですよ!』とはいえないよな」

 

じいさんは昼となく夜となく大声で「…ああ、ああ、痛!あいたたたた…むぅ…」「…ううん?!」とひとりごとをいっていた。正直気が狂うような頻度だったが、不思議とそれほど気に障らなかった。しかし夜はこれに加えて何やらガサゴソガサゴソ大きな音を立てて内職をする。テレビがつかない、あれが見つからないとナースコールをする。

 

「でもあのなかじゃあの人がいちばん人好きがする、つきあいやすいおいちゃんやったよ」

ともちおはいう。わかる気がする。人間らしい温かみのある人だった。落ちはない。病院にはいろいろな人がいる。何をするか、何をいうかだけでなく、どんな雰囲気の人がどんなニュアンスでやるかの方が、より重要だなと思う。

*1:以前ドラマで「私は胃がんだったの。手術して生き延びられる確率は40%」とヒロインが涙を浮かべて告白するシーンで、二人同時に「手術が出来て40%も生存確率があったらいいだろ!!」といってしまったことがあった。