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スキルス胃がんだったとは!

夫がスキルス胃がんステージ4の告知を受けてからのこと

階上の隣人の話

思い出すこと 今日この頃

ご近所さんが咽頭がんで亡くなったことを昨日知った。わたしももちおも落ち込んでいる。

 

いま私たちは古い分譲団地に住んでいる。団地に住むのははじめてで、引っ越しが決まったときは未知なるご近所づきあいの世界に身構えた。しかし実際住み始めてみると回覧板をまわす以外にこれといった繋がりはなく、名前を憶えたのは同じ階の方だけだった。

 

団地で暮らし始めて数年経ったある朝のこと。玄関前を掃除していると日焼けした恰幅のよい年配の男性がクーラーボックスを抱えて階段を上がってきた。知らない人だったけれど、なんとなく声をかけやすい雰囲気があった。

「おはようございます」

「お?おはよう」

「何を釣ってこられたんですか」

「鯵」

「へー!いーなー」

「うちじゃ食べないの。みんな近所にやっちゃう」

「えー、うちもほしい」

「鯵、好きか?」

「すきです!」

「自分でさばける?」

「がんばれば!」

「なーんだ、じゃあさばいて持ってきてやるよ。いっぱいあるから」

「ほんとに!やったー!」

 

釣り人はしばらくするとさばいた魚と冷凍した蛸をもって降りてきた。釣り人は上階の住人だった。そして「冬は牡蠣をとる。潜ってとるから、美味いよ」といった。

 

それから何度も美味しいものをちょいちょい持ってきてくれた。海の幸、山の幸、どれも地場でとれたものばかりだった。顔が広いようで、知り合いから贈られてきたというものもたくさんあった。「みんな冷凍してる。食べきれないから」とその人はいった。男性はひとりで犬と暮らしていた。近所に別れた女房と娘が住んでいるといった。「ひとりはいい。好きに暮らせるもん」。

 

わたしたちはぶっきらぼうにチャイムを鳴らして美味しいものを気前よくわけてくれることを別にしても、その人のことが好きだった。はじめて会ったときからすぐに仲良くなりたいと思った。「地元のおもしろいところを教えてくださいよ」といったら、しかめっ面をしながらどこへいきたいのかといった。本当に、その人と三人でどこかへいってみたいと思っていた。いつかもちおの仕事がひと段落したら。いつかあちらの都合がいいときに。

 

食事やお茶に誘うと「いい、いい」と遠慮した。「じゃあ、そちらにうかがいますよ」というと、ぎょっとした顔をしていたけれど、それからしばらくして「家、片づけたから」といってきた。よし、じゃあお邪魔しよう。何かすてきなものを持っていこう。それが見つかったら、もちおの仕事がひと段落したら、いつかあちらの都合がいいときに。

 

去年もちおがどうにもこうにも大変だったとき、わたしも何も食べられなくなった時期があった。ちょうどその頃、階上の隣人がいつものように突然チャイムを鳴らし、ぶっきらぼうにビニール袋を突き出して帰っていった。デコポンか何か、無骨な柑橘類だった。わたしはそれを鉢に盛って、長いことそのままにしていた。

 

ようやく食べたのはもちおが入院してわたしが一人で家にいたころだったと思う。とても美味しかった。みずみずしく爽やかで泣きたくなるようなやさしい酸味と甘みがあり、キリキリしていた胃に不思議なほどやさしかった。わたしは名も知らぬ謎の蜜柑をたいせつに食べた。もちおにも取っておいて、退院してからひとくちずつ口に運んでやった。それはそれは美味しかった。

 

ある日、ポストに走り書きをしたノートの切れ端が入っていた。「しばらく家を空けるので回覧板は飛ばしてください」末尾に階上の隣人の名前が書いてあった。

 

長い留守が続いて、年末のある日、ようやく階上のドアが開く音がした。謎蜜柑のお礼がてらうかがうと、少し痩せた隣人が出てきた。そして「咽頭がんでね」といった。「手術して、とれるものはみんなとってくれっていったんだ。抗がん剤も強いやつをどんどんやってくれって」。

 

もちおもがんだと話すと少し驚いていたけれど、一緒に温泉へいかないかと誘うと「いい、いい。俺は長生きなんてしなくていいんだ。もうめんどくさい」といった。そういいながら「胃ろうを受けたんだ」とシャツをめくり、「自分でここから入れられるように、やり方聞いたんだ。看護婦がびっくりしてた。自分でやる人いないって」と少し誇らしげにいった。それから「さっきパックの飲料も飲んでみた。飲めたよ」といった。「犬を娘のところへとりにいかなきゃ」。

 

ほんの半年前まで釣りに旅行にと飛び回り、犬を散歩し、友達を呼んでは料理をふるまい、季節がめぐるたび旬の美味しいものを届けてくれていた人だった。ほんの少し痩せたけれど、相変わらず恰幅がよかった。わたしには生きることがどうでもよくなったようには見えなかった。「いい、いい。それよりこれを持ってって。これはね、」とまた何か美味しいものを出してきて、くれた。してやるのがすきで、してもらうのは苦手な人だった。

 

それから一か月もしないうちに階上の隣人はまたいなくなった。ポストにはガムテープが貼られた。冬場ひとりで過ごすのはきついだろうと思っていたので、入院したのなら少しでも楽にすごせるといいなと思っていた。帰ってきてほしかった。帰ってこなかった。

 

昨日は朝から軽トラックが何台も来ていて、階上の部屋のドアは久しぶりに大きく開いていた。次々運び込まれる荷物は引っ越すあてがなく、どれも処分されるそうだった。

「亡くなったんだって。トラックにいた人に聞いたら『娘さんの依頼で、ぜんぶ処分するんですよ』っていってたよ」ともちおがいった。

 

これで階上の隣人とわたしたちの話はおしまい。わたしが大好きだったあの人はもう魚を持って上がってこない。冷凍庫の中にはもらった巨峰がまだ凍ったままだ。何ができたんだろうと思う。何かできたんじゃないかと思う。また会いたいなと思うし、会えないんだということが強い説得力を持って迫ってくる。

 

悲しいだけじゃなく、怖い。

 

種類も違う、治療方法も違う、対策も違うし予後の経過も違う、年齢も体力も違う。ただがんだということ以外共通点がない。それでもがんで誰かが亡くなったと聞くのは、もちおががんになる前とまったく違う重みがある。

 

物語と違って現実はあとになってみないとそれらしい落ちがない。この話も昨日の今日なので、いまはまだこのことがわたしたちにどんな衝撃をあたえたか、上手く言葉にできない。


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ありがとうエピソード がん闘病看護漫画「今日から第二の患者さん」

結婚間近で三十代の婚約者に大腸がんが見つかったという漫画家の青鹿ユウさん。

結婚14年目に四十前の夫にスキルス胃がんが見つかった我が家とはちょっと違うけれど、二人だけの暮らしで女性が看護側に立つという点で共感できるところがたくさんあるお話だった。

 

「第二の患者」とは看護者が看護を続けるうちに心身のバランスを崩し、いわば二次災害のように病んでしまうことだそう。わかるー。これって介護者に介護が必要になることや、育児中のお母さんが自分にも世話してくれるお母さんがいたらって思うのと似てる。ひとりで重荷を背負うのは心身ともに健康な人でも大変だってことよね。

 

看護や介護、育児には共通する大変さがある。

 

・金銭のやりくり

・時間のやりくり

・複数の各種事務手続きを期日までに提出する難しさ

・予測がつかない状態の生きている人間を相手にすることにともなう緊張

・断続的な仕事が延々続いて終わりが見えないこと

・未経験でありながら命に関わる決定を迫られることの重圧

・個人的な休息をとることの難しさと後ろめたさ

・理解しあえる仲間を見つけることの難しさ

・平常運転の社会の話題についていけず孤立しがち

・孤立した状態で自責の念が募ることが増え、自尊心が低下しやすい

 

というわけで、看護、介護、育児にたずさわる人が暗い顔をしているのは暗い想像で頭がいっぱいなだけってわけではない。逆にいえば命の算段はどうにもならないけれど、事務手続きを手伝ったり、一日なり数時間なり休みをとれるように助っ人に入ったり、食事を届けたり、傾聴したり、平常運転界の様子を伝えたり、尊敬できるところや愛すべきところは遠慮なく言葉で、態度で伝えたりは、まわりの人にもできる。

 

現在公開中の第12話「ありがとうエピソード」には、そんな周囲の助けがどんなに力になるかというお話。

comic.pixiv.net

がんに限らず、看護、介護、育児にたずさわる方が身近にいらっしゃる方、そして看護、介護、育児にあたっておられる方、お世話になった方、なっている方に、ぜひ読んでいただきたい。

 

わたしたちはいつもしてもらう側にいるわけでも、してあげる側にいるわけでもない。どちらの側に立つときも互いの立場で力になり、慰めになれたらいいなあと思う。 


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「胃がん 4型」

告知から最初の入院まで

もちおが告知を受けた日の深夜。

わたしはもちおが眠った後、リビングでひとり「胃がん 4型」で検索した。4型とはスキルス胃がんと呼ばれる進行がんのことだった。

 

スキルス胃がんは胃粘膜に浸潤するタイプのガンで、発見が難しく進行が早い、そのため生存率が低さが顕著だということだった。逸見政孝手塚治虫はスキルス胃がんで亡くなった。2012年に宮迫博之もスキルス胃がんで手術をして胃の1/3を切除していた。

 

がんは進行の度合を四段階にわけてステージ1、ステージ2とステージごとに呼ぶ。もちおがどのステージにいるのかこの時点ではわからなかった。しかし検索結果はとにかく暗い話ばかり。明るい口調なのは「まず治ることはないので旅行にでもいって、やりたいことをしてすごしましょう」と他人事のやけくそ気味なものだけだった。

 

ないの?なんか、ないの?治った話とか、効果的な治療法とか。

 

「そうか。年末の胸ふたがれるような予感はこれだったのか、なるほど!」という映画でも見ているような気持ちと、「待って待って、待って待って待って、ちょっと待ってやめて、元に戻して」という気持ちが襲ってきた。突然屋上の柵の向こうへ押し出されたような気分だった。

 

寝室に戻り、眠っているもちおの横顔を眺めていたらびっくりするほど泣けてきた。

起こしたらいけない。わたしは落ち着いていないといけない。喉を絞めて声を殺すと苦しくて、もちおも苦しいのかなと思うとさらに涙が止まらなくなった。

 

「あんなにいったのに、どうして無茶ばかりするんだ!」と腹立たしくやりきれない気持ちと、「わたしと一緒にならなかったらこんな苦労もしないですんだのに。結婚したのが間違いだった」という思い。「待って待って噓でしょ」「やっぱりね、あれもこれもこのことだったのよ」もぐるぐるまわって夜は更けた。

 

この頃のもちおは食べられないだけで、肌つやもよく、声にも覇気があった。たくましい腕に厚い胸板ですやすや眠るもちおはいたって健康そうに見えた。「いつかもちおがいなくなる日が来たらどうしよう」とこれまで何度も思ってきたのに、まだ何の覚悟も出来ていない。

 


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がん保険選びの難しさとひまわり生命お姉さんのやさしさ

手術前

告知から5年前、2011年の秋に「ライフプランナーから保険の見積もりを受けてみませんか」という電話がプロバイダー経由でかかってきた。

 

その年わたしたちは3.11の震災と原発事故を深刻に受け止め、今後の住まいや仕事について長期的な視点で考えなおそうとしているところだった。当時は掛け捨ての共済に入っているだけで、もしものときに保険金代わりに使えるまとまった貯金もなかった。
当時もちおは35歳。デスクワークに就いていて、厄介なピロリ菌も無事除菌し終わりましたと病院でお墨付きをもらって数年経つ。今後年齢が上がると掛け金は上がるし、デスクワークを続けている保証もない。ほかの病気で引っかかったら入れない。入るならいまだ。

 

アドバイザーのSさんは見るからに仕事が出来そうな人だった。資料がごっそり入ったデカくてゴツくて真っ黒で、いかにも重そうな鞄を持ってやってきた。昔のお医者の往診鞄みたいだ。

 

わたしたちは希望の保証と支払い可能な金額を伝え、Sさんのすすめに従って三つの保険に入った。メットライフアリコの60歳満期で生涯続く医療保険、その保険に付帯できるガン特約。
がん保険は別に入った方がいいですよ」とSさんはいった。「がん治療ってやっぱりすごくお金がかかるんです。医療費に上限があっても入院や手術で保険対象にならないものも多い。がんに特化した、先進医療も受けられる保険があるので、そちらをおすすめします」
これがひまわり生命の「勇気のおまもり」だった。

 

2016年1月13日、もちおが胃がんと診断され、今後の検査と手術の予定をB医師から聞いたあと、わたしは保険会社に電話をした。「夫がガンで」と誰かに話したのはこれが最初だった。

 

メットライフアリコの担当者は混雑した役所の窓口担当のような人だった。非常に事務的に住所氏名年齢など契約事項を確認し、所在地の読み仮名が一部違うことにしばらく固執していた。
「こちらにはこのようになっていますが?そちらでよろしいですか?では訂正されますか?」
どうでもいい。漢字が正しくて郵便物が間違いなく届けばわたしにはどっちでもいい。いまそんな話していたくない。こっちはこれから生きるか死ぬかの算段しないといけないんだ。いや、死亡届の窓口もこんな感じなのかな。

 

次にひまわり生命に電話をかけた。
「お電話ありがとうございます、担当のひまわり(仮名)です!」第一声から歌のお姉さんのように朗らかな声の方が出た。メットライフアリコとのギャップがおかしくて、なんだか笑ってしまいそうになった。
ところが「実は夫が胃がんの告知を受けまして」と話すと急転直下、お姉さんはこれまた見るからに悲痛な声で「…それは、さぞお気を落としのことでございましょう」といった。こんな風にいわれると逆に「いや、それほどでもないんですけど」とまたおかしくなってしまう。

 

「それではさっそくではございますが、ご契約手続きをご案内させていただいてもよろしいでしょうか」
「お願いします」
「まず一時金ですが、何かとご入用でしょうからこちらを先にお振込みさせていただきたいと思います」
そうだ、一時金が100万円入るんだった!

 

そのころわたしたちは一時期をある意味で残念賞のようにとらえていた。ガンになっちゃったけど、これで何か楽しいことでもしてね、という慰め代。「SONYのVAIOZ CANBSがほしい、一時金で買っていい?」ともちおははしゃいでいた。しかしこの一時金こそ闘病ビギナー予想外の出費を支える虎の子になることを、後にわたしたちは思い知らされる。

 

医療保険を受け取るためには保険会社の作成した用紙に通院、入院、手術などかかった費用を病院に記入してもらわなければならない。これを病院に出してもらうのに一通7500円くらいする。病院にかかるたびにこれを書いてもらうと保険料の大半が用紙代になってしまう。なのである程度まとまってからにした方がいい。それまでかかる費用は一時金でカバーする。

 

この術前検査がけっこうかかる。保険適用でも数千円、数万円という検査が続くし、交通費もかかれば仕事を休むことで入るお金も減る。バタバタしていると外食も増える。つまり保険が下りるまである程度まとまったお金がないと生活が詰む。

 

記入用紙は保険会社ごとに違うので、保険を2社かけていた場合は通常病院側に支払う記入代も倍になる。「ですが、私どもひまわり生命は他社の保険会社が発行した記入用紙も受け付けておりますので、コピーで結構です」とお姉さんはいった。なんて細かいところまで行き届いているんだ。

 

一方メットライフアリコは規約に沿った用紙に規約通りに記入した原本しか受け付けない。後にメットライフアリコのがん特約は手術後の費用のみ保険対象で、手術前の検査や治療は保険対象外だということを知る。つまり手術前に化学療法でがんを小さくする方法をとった場合、また手術ができない場合の放射線や化学療法にかかった費用は出ない。掛け金の小さな特約とはいえ、これではかけた意味がない。そうと知っていたら考えなおしていたと思う。

 

当事者になってから調べて驚いたことはほかにもある。がん保険とひとくちにいっても何がガンでなにがガンでないかは保険会社の解釈とプランによって違う。長年がん保険をかけていてもいざ告知を受けたとき保険適用されるかどうかはケースごとに調べてみなければわからない。

がん保険の3つの落とし穴に要注意!加入前に絶対確認すべきポイント

 

保険に加入するときライフアドバイザーのSさんがゆるいたぬきの絵がついた「ひまわり生命 勇気のおまもり」と書かれたパンフレットを出しながら、「こんな名前ですけど、とてもしっかりしたいい保険なんですよ」と苦笑気味にいっていたことを思い出す。本当ですね。いい保険ですね。厳選していただいた甲斐がありました。

 

このような現実的な保障もさることながら、ひまわりお姉さんの大袈裟なほど感情を込めた声が、わたしには予想外に大きな慰めになった。夫はまだ元気なんです、ちょっとご飯が食べられないだけなんですよ、ウフフ、と条件反射で無駄に元気にふるまってしまっていたけれど、お姉さんに気遣われて胸が熱くなるほどほろりとした。冷静なつもりでいたけれど、ショックを受けていたんだと電話を切ってから気づいてしゅんとした。当事者であるもちおの前で動揺したらいけないと思って、お姉ちゃんモードだったのだった。

 

闘病期間中、こうしたささやかな言葉を通じて人の情けが身に染みることは何度もあった。

 

手術が受けられないとわかって化学療法を開始して退院する日、病院のエレベーターホールで腹腔鏡検査に立ち会った若い医師とばったり会った。彼は笑顔で「退院されるんですね。がんばってください!」といって、もちおと握手した。決意のある笑顔だった。未来があることを前提に励ましの言葉をくれたのはその医師だけだった。彼はもちおのベッドへ来たとき、無意識にカーテンを握りしめて離さなかった。それだけ悲惨な容態だとわかっていて、それでも未来に希望を託してくれたことを、わたしたちはそのあと何度も思い出した。いつかお会いできたらお礼を伝えたいと思う。

 


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告知の告知の戒厳令

告知後から最初の入院まで

B総合病院へつくともちおが目を丸くして待合室のベンチに座っていた。

「はてこさん、こっち。仕事は?」

「休ませてもらった」

「悪いね」

「そんなこといってる場合か」

「いや、ほんと驚いたばい」

わたしももちおもまだ実感がなく、どこか他人事だった。

 

A医師に紹介されたB病院の院長はA医師と旧知の仲で、院長のB医師は外科医だということだった。

「Aさんの紹介ですから責任をもって担当します」

B医師は癖のある銀髪を一つ結びにした迫力のある人で、見るからにやり手で経験豊富そうだった。

「これからすぐに検査をして、結果を見て手術の日取りを決めましょう。仕事は?」

B医師ともちおが仕事の予定と検査の日程を話し合っているあいだに、わたしは電子カルテの文字を手帳に書き写した。

「胃胸郭からの4型」

 

A医師からの紹介だからと検査日や手術日はその場で決められ、診察は午前中で終わった。もちおは午後から仕事に出た。そして結局この日から数週間、もちおは検査の日をのぞいて引継ぎや何かで仕事に出ていた。

 

告知を受けたことはこちらが知らせるより早くA医師からわたしの父に知らされた。父はどういうわけか当初「告知を受けたことを誰にもいってはならない」と戒厳令が敷いたため、話はややこしくなった。

 

「早く治して会社に戻ってもらわんと」

告知を受けたことを報告にいくと、父は張り詰めた表情でいった。

「そんなに簡単に治るものじゃないんだよ」

とわたしが話そうとすると、父は鋭く

「おまえは関係ない」

と怒鳴った。

 

「ほかの誰にも関係ない。だから俺は誰にもいうなって言ってある。女房にも言ってない。俺はAに聞いて、みんな知ってるんだ。これはもっちゃんの問題だ。おまえがあれこれ口出しするな」

「B先生はAもよく知ってる。腕は確かだってAもいってる。よく話して、もっちゃんが決めたらいい。いるものがあれば俺にいえ。誰にもいうな」

わたしはこの期に及んで妻であるわたしさえ蚊帳の外に置き、男の世界に口出しするなを持ち出す父に辟易とした。心のうちを話すどころではない。誰に話して誰に黙っておくかは舅でも雇用者でも上司でもなく、もちお自身が決めることだ。治療方針だってそうだ。少なくとも父よりわたしの方が当事者に近い。

 

父が義理の息子の死の影に心底おびえていることにはたと気がついたのは帰りの車の中だった。父は9年前に直腸がんの手術を受けていた。A医師はもちおの予後について、よっぽどなことを父にいったらしかった。

 

もちおは父の指示に素直に従った。おかげでちょっとした不調だと考えた人たちは仕事の電話をひっきりなしに電話が入れてくるし、体調を聞かれたもちおは「お腹の調子がちょっと悪い」と答えるしかなく、もちおは検査の前後も飛び回っていた。

 

後にブログでもちおのガンについて書いたときに「告知されたことはよほどのことがない限り黙っているべきだ」と考えている人が大勢いることを知った。実際がんの告知を受けたことを話すとびっくりするようなことを言われてショックを受けることは少なくない。

 

けれども現実問題隠しておくことが闘病上不都合な場合は多々ある。

kutabirehateko.hateblo.jp

 

 

 告知を受けたことを開示するかどうかは可能な限り当事者が決めることで、周囲が言うべきだ、隠すべきだと圧力をかける*1のは余計な負担を増やすばかりだと思う。

 

 


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*1:隠す理由がわからなかったんだけど、がん患者を不吉な存在として忌避する人が一定数いることを身をもって知ったいま、最後まで隠し通す人は周囲に心配をかけまいとしているだけじゃないんだなと複雑な気持ち。

水を吐いて病院へ

告知前

三が日が終わり、仕事はじめがやってきた。

その日もちおは帰りが早く、わたしたちはローカルラジオの番組で紹介されたレストランへいった。ご飯とスープ類にメインのおかずを選び、サラダが取り放題というお店。もちおは相変わらず食が細くて、わたしたちは食欲がわくものを探して食べようと考えていた。

 

もちおは外食では「その方が得だから」と大盛にできるものは大盛にしてもらう。首都圏にラーメン二郎という店がある。量が多く脂がギトギトで有名な店。東京にいたころもちおは二郎で大盛ましまし(野菜増し、麺まし)を食べる男だった。

 

二郎圏外の福岡に越してからは身体を張ってラーメンに立ち向かうようなことはなくなったが、どうしたわけか仕事の合間にアイスクリームを食べるようになった。電車通勤からのロードバイク通勤をしていた日々は遠くなり、車生活で運動量は減り、当時のもちおは人生で最高に太ってBMI26~27くらいになっていた。ボクサーをしながら肉体労働に精を出していたころから見てきたが、見たこともないような腹だった。

 

ラジオで紹介されていた店のおすすめポイントは男性客大喜びのボリュームだった。もちおはいつもよりずっと控えめに皿におかずを盛り、席に着いた。しかしとった料理をほとんど口に運ぶことができなかった。

「サラダは?野菜だけでも食べられたらいいよ」

「うん…なんか詰まった感じがして苦しい」

「お水もってこようか?」

もちおは飲み込んだ料理を苦しがり、水を飲んだ。それでも詰まった感じは消えなかった。

 

ほとんど食べきれないまま店を出て駐車場へ向かう途中、もちおはどんどん具合が悪くなり、ついに路肩の排水溝で吐いた。胃痙攣を起こしているのだとわたしは思った。ところが出てきたのは水ばかりだった。

 

「水飲んで吐くっておかしいよね」ともちおはいった。もちおはこのときはじめて自分の身に、何か経験したことのない異常が起きていると自覚したようだった。「明日、Aさんの病院いってくるわ」

 

もちおの胃はこのとき中心部をガンで侵され、上下を残して齧られた林檎のような形になっていたことが後のバリウム検査でわかった。スキルス胃がんのスキルスとは皮のことで、ガンに侵された胃の粘膜は食物が入っても膨らむことができない。もちおがいっていた「詰まった感じ」とは、林檎の芯のように細くなった胃の中心部を咀嚼した食べ物が通過するときの圧迫感のことだった。一気に入ってくると通過の苦しさは液体でも変わらない。

 

会社の保険で毎年人間ドックを受けていたときにはバリウム検査も毎年受けていた。転職してからは毎年健康診断を受けていたけれど、バリウム検査は受けていない。不愉快な検査の代表選手として名高いバリウム検査だけれど、あのまま人間ドックを毎年受けていたらここまで進行することはなかった。

 

もちおが4年ぶりにバリウム検査を受けたのは細胞診検査の結果からガンがわかったあとだった。当時のもちおの胃壁は鍾乳洞のようにボコボコで惨憺たるものだったけれど、A医師は胃カメラでこの惨状を見てもまだガンだとは気づかず、「胃潰瘍やね~。薬出しとくけん。念のためちょっととっておこうか」と細胞診検査をして胃薬を出していた。翌週の検査結果を見ていちばん驚いていたのはA医師だった。

 


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マスオさんストレスと食欲不振

告知前

A医師らと別れたあと帰宅してひと眠りした大晦日の夜、一人暮らしをしている母から手料理を用意しているというLINEが入った。母は料理上手なのでいつもなら喜んでいくところだけれど、このときはもちおが二人で過ごしたいというので、断ってファミレスでパフェを食べた。正確にはわたしがパフェを食べて、もちおはいくらか味見をした。

 

はじめはフレッシュネスバーガーへいきたいといっていたのだけれど、店はすでに閉まっていた。もちおは「ざーんねん!」と言いながらも落胆する様子はなく、妻の手をつないで歩くことを楽しんでいた。

「あー、二人は楽だ。ストレスだと思うんだよね」

二人きりで夜の街を歩くもちおは上機嫌だった。わたしは「これでうやむやにはしまいぞ」と思う気持ちと、「本当に何でもないのならいいな」という淡い期待とで揺れていた。はたして元旦、もちおははてこ母が作る絶品お節と雑煮を二口食べただけで耐えられず横になった。

 

「我神散がいいわよ」と母はいった。

母は祖父母の代からの我神散愛好家で、胃腸の悩みにあの苦い粉末以上のものはないと思っていた。もちおは母の勧めで我神散を買ってはいたけれど、効果が感じらないようで、1、2包飲んでそれきりになっていた。

 

「だめよ、ちゃんと飲まなきゃ。病院はいったの?はてこはなんでいわないの」

「いってるよ。でももちおの身体のことはもちおが決めるでしょ」

もちおは弱弱しい苦笑いで座布団に頭を乗せて黙っている。

もちおは人をはっきり拒絶しない。ぎゃーぎゃー文句をいう相手は妻だけだ。舅姑のすすめはなんでも受け入れるそぶりを見せるけれど、まず自分の望まないことはやらない。押しの強い母はなんとしても確約を取り付けようとするけれど、本人が望まないことをいっても無駄なのだ。

 

それにしてもこの小食ぶりはどうしたことか。普段姑への不満の最後を「でもお義母さんの料理は本当に美味いからな」でしめるもちおは、土産に持たされたお節にもほとんど口をつけなかった。かわりにスナック菓子やアイスクリームなどジャンクフードを食べ、不調を理由に家にこもって漫画を読み、ベッドでだらだらして正月をすごした。寝正月をエンジョイするもちおはそれなりにしあわせそうだった。確かにストレスで他人が作った料理を受け付けなくなるということはある。このころはまだ妻が作ったクリームシチューなどはもりもり食べていた。

 

じゃあ大晦日の蕎麦屋は?

あれは舅一家とその客に囲まれていたのがストレスだったのかもしれない。

年末にお弁当が入らなかったのは?

それは連日の忘年会で胃が荒れていたのかも。

 

そうだろうか。暴飲暴食で一時的に胃が荒れて、そこに精神的なストレスもあって食事を受け付けなかったのだろうか。

 

もちお自身は間違いなくそう思っていたし、わたしもそう信じたい気持ちはあった。それが覆ったのはもちおが飲んだ水を吐き出した日、告知を受ける一週間前の夜のことだった。


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