五日目のシスプラチンと病院の妖怪
血液検査の結果がよかったようで、 今日で退院。CTは造影剤で腎臓に負担をかけたくないと延期してもらったそうだ。医師はいずれにせよなるべく早めに経過を見るべきだといったが、CT検査をしたところでよくなるわけではない。ダメージに追い打ちをかけるような真似をするのは馬鹿らしい。そんなわけで丸一週間の入院が終わる。今後は自宅でTS-1の服薬
入院費用は月をまたいだためざっと8万円ほどかかった。この他に見舞い時の駐車場料金とガソリン代。これを毎月これをやるのかと思うと思いやられるが、どうなるかわからない。とにもかくにもひまわり生命の「勇気のお守り」に入っていてよかった。株をやるくらいなら60歳満期で生涯保証型の医療保険と、がん保険に入っていた方がいいですよ、みなさん。こんなに大きな回収をすることになるとは思わなかった。
昨日、もちおは妻を階下まで見送ったあと、廊下でアラサー女性三人組とすれ違った。三人とも恰幅がよく、横に並んでよちよちと歩いてくる。その真ん中にいたひとりが、すれ違いざまにもちおの目を見て
「目が死んでる」
といったという。
話を聞いて「ええ?!」と思わず声が出た。腹が立つより驚いて信じられなかった。見知らぬ病衣の入院患者に死を示唆する捨て台詞を吐く見知らぬ女性。病院の怪談のようだ。妖怪の類なんじゃないのか。
「それで、どうしたの」
「どうもできんわあね!はー、俺が本当に死にかけとるのにからこいつは!まったく」
もちおはひとしきり毒づいたが話は昨日のことだ。後の祭りである。
「前世こっぴどく振った人が来世で復讐してやろうと思ってやったんじゃない?」
「そうか。もっと酷い振り方をしてやればよかった」
どういうわけかもちおは死を匂わせる意地悪や嫌味をいう女性によく当たる。言っている側にとってはちょっとした意地悪らしいこうした悪意は、悔しいことに非常にダメージが大きい。
見知らぬ男からすれ違いざまに「ブス!」といわれたという女性は多い。なぜそんなことをするのかわからないが、やり返してくる恐れのない相手、やり返されてもたかが知れている相手に通り魔的な悪意をぶつける人は少なくない。病院では患者にそれをやる人がいるということだろう。
退院の支度をしていたら向かいのベッドの耳の遠い老人がぱっと顔を輝かせてやってきた。
「退院するとね?」
「はい」
「あーっ!いいねえ。うらやましい。俺はまだまだおらないけんっちいわれとう」
「居った方がええですよ」
「ああ?」
「ここに居った方が、ええですよ」
彼は独り者で、帰れば身の回りの世話をしてくれる人もいない。近所に娘が住んでいるそうだが、息子が事業に失敗して家を売ることになったので、いまは年金暮らしなのだとあとでもちおが話してくれた。大声で話すので筒抜けなのだ。
「いや、帰りたいよ。家におったら何でもできるもん」
そらそうだよな。このじいさんは耳が遠いせいもあるが、声は張るし他人に興味もあるし、人生を謳歌している感じがする。ここにいても退屈だ。
「俺はがんなんよ。手術もできんし、治らん」
「僕もです」
「ああ?!あんたもがんね!」
うれしそうだ。病が癒えて退院していく働き盛りの若い男だと思ったら仲間だった。
「俺は大腸から肝臓へ転移してくさ、肛門までなって、手術ができん。あと5年くらいしか生きられん」
わたしともちおは恐らく同時に(…5年もあればいいじゃん…うちは5年生存率10%切ってるんだぜ…)と思った。*1
「でもいいと。俺はいま78歳やき、5年生きたらそれ以上生きんでもいい」
じいさんは明るく力強く断言した。
「あんなにいわれたら『あんたの寝言で眠れんとですよ!』とはいえないよな」
じいさんは昼となく夜となく大声で「…ああ、ああ、痛!あいたたたた…むぅ…」「…ううん?!」とひとりごとをいっていた。正直気が狂うような頻度だったが、不思議とそれほど気に障らなかった。しかし夜はこれに加えて何やらガサゴソガサゴソ大きな音を立てて内職をする。テレビがつかない、あれが見つからないとナースコールをする。
「でもあのなかじゃあの人がいちばん人好きがする、つきあいやすいおいちゃんやったよ」
ともちおはいう。わかる気がする。人間らしい温かみのある人だった。落ちはない。病院にはいろいろな人がいる。何をするか、何をいうかだけでなく、どんな雰囲気の人がどんなニュアンスでやるかの方が、より重要だなと思う。